のは何でしょう」と、震え声でたずねると、大公はしきりに扉の廻りを手探りしながら、
「あれはフィリップさんという梟《ふくろ》の夫婦。いま鳴いてるのは夫人《おくさん》の方です」と、囁《ささや》くように答えた。「令嬢、この扉のそばに『水仙荘《ヴィラ・ナルシス》』と彫りつけた標札があって、そのそばに呼び鈴があるはずですから、ちょっと探してみて下さい」
 タヌは長い夜の探検に疲れたとみえ、草の上に踞《しゃが》み込んでいたが声に応じて門のそばまで進み寄って、マッチをすり、手探りをしいろいろ工風を凝《こら》しているふうだったが、間もなくすぐもどって来た。
「呼び鈴なんかなかったよ、それに、標札には『|三匹の小猿荘《ヴィラ・トロワ・サンジュ》』と彫ってあるんだけど……」
「ほほう、それは奇妙です……でも水仙と猿なら大した違いではありませんね……それにしても呼び鈴がないとは……」と、じれったそうに掌《てのひら》を擦《す》り合わしていたが、突然飛びあがるようにして、
「ああ、そうだ呼び鈴ではない、鐘をたたくのでした。では鐘をたたいてわれわれの到着を知らせましょう」といってジャン、ジャンと二度ばかり軽く鐘をたたいてから、何物かを期待するように腕組みした。しかし、門内はいぜんとしてひそまり返り、いつまで経っても一向人の出て来る気配もない。
 氷のように冷たいアルプス颪《おろし》に、腹の底まで冷えあがったタヌは、そろそろ肝の虫を起こしたとみえ、ばたばた足踏みをしながら、
「もっと、ジャンジャン鳴らしましょうか」というのに、コン吉もその尾鰭《おひれ》につき、
「誰れも出て来ませんが、鐘の音が聴えなかったのではないでしょうか」
「誰れにです」
「つまり、屋内《なか》にいる人に」
「屋内《なか》に人なんぞおりません」と、大公は自若。
 四、天国に行きたければ小さな孔《あな》より入るべし。およそ二三十も鍵のついた大きな鍵束を渡されたコン吉が、一つずつ鍵を扉のところへ押し付けてゴトゴトやっていたが、どれも大き過ぎるか小さ過ぎて合わない――もっとも合わないはずだというのは扉には始めから鍵穴なんかなかったのである。
「どの鍵も駄目です、合いません」
「なるほど、そんな事もあるかもしれない。錠前にだって、その日その日の気分というものがあるでしょうからね、横から入りましょう。さ、こちらへ!」と、一声、絶叫したかと思うと、公爵は飛鳥のように身を翻《ひるがえ》して家の横について走りながら西洋蘆《キャンヌ》の中へ消えてしまった。
「これは大変なことになった。せっかく公爵と別懇になって、この冬は碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》にふさわしい快適な生活ができると思ったのに、どうやらあの公爵の脳髄は大分混雑しているようだ。このままのめのめとあの人物の招待に応じていたらわれわれの身辺にまたもや意外な椿事《ちんじ》が起こるかもしれない、波瀾万丈は小説家の好むところだろうが、僕は元来、コントラ・バスの修業に仏蘭西へやって来たのだから、平和な生活の方が望ましい。どうだろう、幸い公爵は裏の方へ行ったようだから逃げ出すなら今のうちだと思うけど……」
 西洋蘆《キャンヌ》の繁みの奥の方をキョトキョトと偸視《ぬすみみ》しながら、コン吉がいうと、タヌは一向意に介しないふうで、
「頭の工合が悪いからこそ、こんな海岸へ養生に来たのよ、だいいち、コン吉にしたところが、同じ目的でやって来たのだから、願ってもない良い仲間《コオパン》じゃないこと、もし幸い君の頭が、あのひとの頭より少しでもましなら、せいぜい看病してあげたまえ、それこそ同病相憐れむっていうものよ、なにしろ公爵は、大きな遊艇《ヨット》や、すばらしい競馬|馬《うま》を持っているそうだから、この冬はずいぶん愉快に暮らせるに違いないわね。ともかく君が何んといってもあの人が話していた『竜の玉』ってのを一目見ないうちは帰らないつもりよ。さ、早く鞄を持ちたまえ、屋内《なか》へ入りましょう。ぐずぐずしないで!」と、早や小走りに歩き出す。
 コン吉はせんかた泣く泣く、大きな帽子箱と鞄とラケットを両手にさげ、とぼとぼとタヌのあとについて荘館《シャトオ》の横手に廻ってみると、大公におかせられては、いまや、欅《けやき》の大掛矢を振い勝手口の階段の横について、石炭を汲み入れる二尺四方ほどの鉄扉に対して大破壊を行なっている様子。
 やがて、鉄扉は長らくの打撃にたえかねたとみえ、ぐゎらりと内部に落ち込んだ。様子見澄ました公爵は、おもむろにハンカチで指をぬぐってから、コン吉に、
「さ、どうぞお入り」と挨拶した。
 コン吉が恐る恐る暗い孔《あな》の中を覗いてみると、はるか七八尺も底の方に、硝子《ガラス》の破片《かけら》のように尖ったものすごい塊炭が、ぞろりの牙をむいているのが見えたから、
「いいえどうぞ、ご主人から」と、懸命に辞退した。
「ご遠慮も時によりましょう。まずまずお通り下さい」
「でも、なんですか、この穴は少しちいさ過ぎると思うんですけど。……それに、多少不潔でもありますし……」
 公爵は爪をかんで、しばらくコン吉の顔をみつめていたがやがて、
「なあに、いざこざはないさ」とつぶやきながら、壁に立て掛けてあった件《くだん》の細長い袋から、菩提樹《ぼだいじゅ》の杖に仕込《しく》んだ、夜目《よめ》にもどきどきするような三稜[#「稜」に傍点]の|細身の剣《ラツピエール》を抜き出して、コン吉の鼻っ先へ突きつけ、さて「這え!」と、もの柔らかに命令した。
 コン吉は吃驚《びっくり》敗亡、何の否やもあらばこそ、仰せのごとくに四ん這いになると、引き続いて、
「穴に頭を突っ込め! お尻をもたげて!」という厳命。されば、コン吉はお尻をもたげ、麒麟《きりん》が池へ水を飲みに来たような姿勢をとると、公爵は、その尻を、
「おう!」という掛け声もろとも、三稜剣《ラツピエール》で横|薙《な》ぎに引っぱたいたから、コン吉はたまらない、
「うわア!」と一声、悲痛な叫びを地上に残して逆落しに石炭|孔《あな》の闇の中へと消えうせた。
 五、二月の空は南方《ミデイ》特有の深い紺碧に澄み渡る。ミモザと駝鳥の首のような、とぼけた竜舌蘭《アロエース》の花が、今を盛りと咲き乱れるキャンヌの公園では、はや朝から陽気な軍楽隊《ファンファル》、エドゥアール七世の銅像の前を、テニス服を着て足早やに行くのは隣りの別荘の英吉利《イギリス》娘。アルパカのタキシイドを着てひょっこり賭博場《キャジノ》から出て来たのは、多分昨夜、コン吉から、三十|法《フラン》ばかり巻きあげたあの憎い|玉廻し《クルウピエ》であろう。
 コン吉が石炭庫の石炭で手ひどくやられた、右足を軽く跛《びっこ》にひきながら、公爵とタヌのあとに附きそって、ブウルガムの広場《スクワアル》をひょろめき下り、しかるのち、オテルサヴォイの露台《テラス》に坐り込んで、アルベエル・エドゥアールの突堤《ジコテ》に続く棕櫚散歩道《パルム・ビーチ》をおもむろに眺めるところ、行くさ来るさの市井雑爼は今日もまた寝巻的散歩服《ジュップ・ピジャマ》の令嬢にあらざれば袖無寛衣《ブルウズ・サン・マンシュ》の夫人《おくさん》、老いたるも若きも珍型異装を誇り顔に漫々然々《ぶらりぶらり》と練り歩く様子、異装にかけてはあえて人後に落ちざるタヌの身装《いでたち》はとみてあれば、今日はまた一段と趣向を凝らしたとみえ、腰の廻りに荒目昆布のごときびらびら[#「びらびら」に傍点]のついた真紅《しんく》の水浴着《マイヨオ》を一着におよび、クローム製の箍《たが》太やかなるを七八個も右の手頸《てくび》にはめ込んだのは、間もなくこの席にて開催さるべき sporting club の茶話会に対する用意と見受けられた。
 さて、少《すこ》しく精神に異状を呈したと思われる、フィンランドの公爵、モンド氏の古き館《シャトオ》に捕虜となったコン吉ならびにタヌのその後の朝夕は、直接の肉体的被害はすくなかったが、見る事聞くこととかく頓珍漢《とんちんかん》なことばかり、一口にいえば、やや神秘的とも幻想的ともいえる雰囲気《アトモスフェル》の中に、ただ夢に夢見る心持、昨夜も夕景から「|三匹の小猿荘《ヴィラ・トロワ・サンジュ》」の食堂において、聖《サント》ジャンの祭日にちなんだ大饗宴があると披露されたにより、空腹《ひだる》い腹をかかえ、食堂の長椅子にたぐまって片唾《かたず》をのむところ、薦延《せんいん》数時間、ようやく十時真近になって、蓋付きのスウプ容《い》れと三人前の食器を、大いなる銀盆にのせて運び出して来た公爵、ルイ十五世ふうの卓《テーブル》の上にそれを適当に配置してから、
「私《わたくし》はこれから、次の肉皿《アントレ》の仕度にかかりますから、もう少々お待ちを願いましょう」といって、脚の一本ない古風な翼琴《クラヴサン》のそばへ行き、ものしずかにブラアムスの「子守歌」を弾き始めた。
「肉皿《アントレ》には鶫《つぐみ》を差し上げようと思っているのですが、実はその鶫なるものはまだ糸杉《シープレス》の頂《てっぺん》の巣の中で眠っているのです、なにしろね、鶫なんてやつは目覚《めざと》いからこうやって、子守歌でも聴かせて、ぐっすり眠らせておこうと思うのです」
 子守歌は不可思議極まる装飾音の中で跳ね廻り、随所で奔放自在な転調《モジュレエション》を行ないながらようやく最後の静止音までたどり着いた。
 すると公爵は、上品な白髪《しらが》頭の真中を見せて一|揖《しゅう》し、
「ほどなく肉皿《アントレ》も参りましょう。では紳士ならびにご令嬢、どうぞお席へ、前菜《オオ・ドオヴル》でも始めることに致しましょう」と威儀を正して披露《アノンセ》した。
 豊満な期待と共にセルヴェットを膝の上に拡げたコン吉が、白いセエヴル焼のスウプ容れの中をそっと覗いてみると、その中には、クレエムのかかった血のような赤い薔薇が三輪盛られてあった。
 というわけ。
 幻想的な方はまあまあそれでよろしいとして、さて、現実的な方は実に手のつけられないほどの被害があった、というのは、モンド大公は二人をば、日がな毎日、キャンヌの町中を引き廻し社交界に紹介するという名目のもとに、文学趣味の夫人に対しては(日本の最も著名なる小説家である)と紹介し、運動趣味の紳士には(これは日本から派遣されたゴルフの代表選手です、どうぞよろしくお引き廻しのほどを)と推薦し、有名なるキャンヌの賭博場《キャジノ》の経営者《プロプリオ》、アンドレエ氏に対しては(この夫妻はバカラの名人ですよ、手を焼かないように用心なさい。なにしろ、東洋の魔法を心得ていられるのだからね)と人によりその日の気分によって、自由自在な紹介をするところから、コン吉は、いまやキャンヌにおいては、前述のもののほか、有名な天文学者であり、世界一流の馬術の名人であり、曲芸師――予言者――生花の先生――釣魚家《ちょうぎょか》――コルネット吹き――映画の監督――発明家――陸軍砲兵少佐――油断のならぬ間諜……と、天《あめ》が下にありとある名流を一手に引き受け、キャンヌの社交界を向うに廻して、必死の格闘を続けることになったという次第。
 されば公園のベンチでは見も知らぬ夫人に「近ごろ、お作の方はいかがですか」とか、突堤の鼻では老紳士に「沼で姫鱒《ひめます》を釣りますには鋼鉄製の英国ふうの釣竿より、どうも日本《おくに》の胡麻竹の釣竿の方が……」とか思いもかけぬ訊問の奇襲にあうによって、コン吉の市中の散歩は、毎分毎秒、さながら薄氷を踏む思い。
 今日この茶会《ティ・パアティ》で「西洋蘆《キャンヌ》市|運動協会《スポオティングクラブ》」の会長を招待するというのは申すまでもなく、公爵が例の自在なる幻覚によって会長その人に、コン吉を紹介しようという計画に違いない。さてコン吉は、そもそも今日は水泳の選手になるのであろうか。飛行艇《アエロ・キャノオ》の技師になるのであろうかと、しくしく痛む腰を撫でながら、されば戦々恟々《せんせんきょうきょう》。
 六、カランカランと鳴る
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング