ノンシャラン道中記
謝肉祭の支那服 ――地中海避寒地の巻――
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誦《ず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|法《フラン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Re^vons〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 一、誦《ず》するはこれ極楽浄土の歌。一九二九年二月十日、巴黎《パリ》なる里昂《リヨン》停車場を発したる地中海行特急《ペ・エール・エーム・エクスプレッス》第七九五号列車は、蒼味をおびた夜空に金色の火花を吹き散らしながら、いまや、アルルの近郊《プロヴァンス》に近い平坦な野原に朦朧とたたずむ橄欖《オリーブ》の矮林《わいりん》のそばを轟々《ごうごう》たる疾駆を続けてゆく。
 とある隔室《コンパルチマン》の中を差し覗けば、豆電気を一つだけ点《とも》した混沌たる紫色の薄明りの中に、赤い筒帽を冠ったアルジェリの帰休士官、加特力《キャソリック》の僧侶の長い数珠《じゅず》、英吉利《イギリス》人の大外套、手籠を持った馬耳塞《マルセイユ》人――それぞれクッションのバネの滑《すべら》かな動揺につれて、ひっきりなしに飛びあがりながら眠りこけているうちに、漫然と介在した若い男女の東洋人、これもまたはなはだ不可解な姿勢をたもちながら、前後不覚に眠っている様子。
 男子なる方は、卅一二歳とも十七八歳とも見える曖昧しごくな発達をした顔の半面に、蒙古風の顴骨を小高く露出させ、身近に置かれたるマルセイユ人の手籠の編目へ鼻の先を突っ込んで睡眠しているのは、多分その中にしかるべき滋養物でも嗅ぎつけたからでもあろうか。かたわらなるは、十七八歳の令嬢ふうの美婦人、座席の上に横坐りして絹靴下の蹠《あしのうら》を広く一般に公開し、荷物棚から真田紐《さなだひも》でつるした一個二|法《フラン》の貸し枕に河童頭《かっぱあたま》をもたらせ、すやすやと熟睡する相好は、さながら動物図鑑の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画《さしえ》に描ける海狸《キャストオル》もかくやと思われるばかり、世にも愛らしき眺めであった。
 さて、昨年|師走《しわす》の上旬、風光るニースに至る一〇〇八粁《にひゃくごじゅうり》を縦走旅行するため不可思議なる自動車に乗じて巴黎《パリ》を出発したコン吉氏ならびにタヌキ嬢は、途中予期せざる事件勃発したるにより、予定の十分の一にもたらぬ里程において目的を放棄し、薄暮《はくぼ》、コオト・ドオル県ボオヌ駅より列車にて碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》へ向けて出発したが、図らざりき、列車の取捨を誤ったため、同夜半ふと目覚めれば、身は再び巴黎《パリ》なる里昂[#「里昂」に傍点]停車場において発見いたしました、という目もあてられぬ惨状、日ごろ筋違いに立腹する傾向のあるタヌキ嬢は、ここにおいておおいに激昂し、「ニースなんぞ、いやなこった!」と、宣言したにより、やむなくコン吉は、氷雨窓《ひさめまど》を濡らす巴黎《パリ》の料亭において七面鳥と牡蠣《かき》を喰《くら》い、小麦粉にて手製したるすいとん[#「すいとん」に傍点]のごとき雑煮を、薄寒き棟割長屋《アパルトマン》の一室にて祝うことになったが、コン吉たるもの、風光|明媚《めいび》、風暖かに碧波|躍《おど》る、碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》の春光をはるかに思いやって鬱々《うつうつ》として楽しまず、一日、左のごとき意味なき一詩を賦《ふ》して感懐をもらしたのは、
[#ここから2字下げ]
|Autant de pluie autant de tristesse, Paris qui m'oppresse!《くさくさするほどあめがふる》
|Fermons les yeux, 〔Re^vons〕 au printemps de Riviera,《ぱりではるをまつかいな》
|Aux figuiers qui 〔mu^riront〕, au vent qui passera,《みなみのくにではいちじくが》
|A l'odeur du soleil sur les lavandes douces.《もうむらさきにうれているげな》
[#ここで字下げ終わり]
 さりながら念仏往生義にも、説くごとく、心に戒行を持って一向専念せば、いずれの弘願ぞ円満せざらん。ここに一念発起したコン吉が、詩神《アポロン》の大威業力に依願し、前掲の拙劣なる短詩をコントラ・バスの伴奏にのせ、日ごと毎日わびしげに独唱するところ、凡夫の悲願、タヌキ菩薩もあわれと思召《おぼしめ》し給いけむ二月上旬のとある天気晴朗の朝、避寒ならびにコン吉の脳神経に栄養を与えるため、地中海沿岸の遊楽地へ向けて再度出発することに決定、けだしコン吉が手籠の編目に、三昧の鼻の先を突っ込んで寝こけているのは、いまや大願成就して、欣求《ごんぐ》の南方極楽浄土《コオト・ダジュウル》におもむくその途中にほかならぬ。
 二、問うに落ちて語るに落ちぬ絵入りの禅問答。どこやらで「馬耳塞聖舎婁《マルセーユ・サン・シャルル》」と呼ぶうるさい声々、赤帽《ボルトウル》を呼ぶ口笛と鼓沓然鞄《どたばたかばん》を昇降場《ケエ》に投げ出す音、ひっきりなしに開けられる窓から吹き込む冷たい風……誰れやらの手で不意に触られて、吃驚《びっくり》して飛びあがったコン吉がキョロキョロと隔室《コンパルチマン》のなかを眺むれば、列車はもうよほど以前にマルセーユに到着したものとみえ、相客は一人残らず下車し、あとには泰然と眠るタヌと自分のただ二人、日ごろ小胆なるコン吉は、なんということなく心細くなって、
「モシ、モシ」と、タヌをゆすり起こすと、タヌは、寝ぼけがちなる眼瞼《まぶた》をしばたたきながら、
「あら、また巴里なの」と、神秘的なことをいう。
「いや、ここはマルセーユです。しかしね、あまり寝ると今度は、伊太利《イタリー》の方へ行ってしまうから、ここらで目を覚ましてはどうですか、それにしても夜がふけたとみえて、だいぶ冷えて来たから燃料補給のため、僕はこれから駅食堂《ビュッフェ》へ行ってサンドイッチでも買って来るつもりです。――そちらに何かご注文がありますか」
「熱いショコラを一杯買って来たまえ」
「ショコラを一杯。――もし熱くなかったらどうしますか?」
「機関車へ行って暖めていらっしゃい」
「はい、かしこまりました」と、コン吉が、扉を開けて廊下へ出ようとすると、その一尺ほどの扉の隙間から、凩《こがらし》のようにひょろりと吹き込んで来た一着の銀鼠色《ぎんねずいろ》のモオニング。――黒琥珀《くろこはく》の袋に入れた長い折り畳み式釣竿のごときものを小脇にかかえ、大きな自動車用の塵《ちり》除け眼鏡をかけ、真紅《しんく》の靴下にズックの西班牙靴《エスパドリエイ》をはいた異装の人物。いきなりむずとばかりに、窓ぎわの座席に坐ったと思うと、ポケットから「ラ・トリブーナ」という伊太利語の新聞を取り出し、顔の前にさかさに拡げて読み出したが、やがて「くだらん!」と叫んで新聞をもみくちゃにし、その玉を忌々《いまいま》しそうに足で蹴っ飛ばした。
 大きな眼鏡からはみ出した顔の部分は、雨あがりのセエヌ河の水のようなやや黄濁した色をし、削瘠《さくせき》した顎《あご》の先には、よく刈り込んだアルフォンス十三世式の白い三角髯がくっついていた。
 コン吉とタヌがあっけにとられて眺めているうちに、やや遠くで錚々《ちりちり》と鳴る発車の電鈴《ソンネット》、車掌の呼び子、機関車がどしんと重く客車の緩衝機に突きあたったかと思うと、列車は滑《なめら》かに昇降場《ケエ》をすべり出し、貨物倉庫や車輛のそばをすり抜け、分岐線をがたがたと飛び越えてから、汽笛一声、マルセーユの市街の胴なかに明けられた長い隧道《トンネル》のなかへ走り込んだ。
 アルフォンス十三世は、蒼白い長い指で顎《あご》を押えながら、眼鏡の奥からじろじろ二人の様子を見ていたがややしばらくののち、気息《いき》で曇った汽車の窓ガラスへ、指で次のような、象形文字を丹念に書きつけた。
[#弁髪の男の絵(fig47499_01.png)入る]
 鹿皮の爪磨きで爪を磨きながら、ゆうゆうと十三世の動作を観察していたタヌは、そこで、いきなり立ちあがって窓のそばまでゆき、せっかくの自由画を掌《て》で拭い取ってから、その右上へ、
[#日の丸の絵(fig47499_02.png)入る]
 と、書きつけて、軽蔑したように肩をぴくんとさせた。十三世はしばらく考えていたが、また立って行って、今度は、
[#三の目のサイコロと豚の絵(fig47499_03.png)入る]
 と、書いて、何か問いたげに、タヌの顔をみつめた。タヌは、
「おや! やったね」と東洋語をもって叫んでから
[#馬と鹿の絵(fig47499_04.png)入る]
 と書いたが、これでは、通じないと思い返したものか、また別に、
[#渦巻きの絵(fig47499_05.png)入る]
 を書いて、十三世の頭蓋骨のあたりを指さしてみせた。十三世はまだ何か書きつけたいらしく、しきりに指先をなめずりながら窓を睨んでいたが、残念ながら、ガラスの黒板は、国旗や豚や渦巻きや馬で満員で、もう立錐の余地もなかった。これには十三世もはなはだ焦慮の体《てい》であったが、何を思ったか今度は、引きちぎるようにチョッキの釦《ボタン》をはずして胸を押しひろげるとワイシャツの胸には、野球選手の運動服のように、赤い心臓と次のような文字が刺繍《ししゅう》してあった。
[#「運は天に在り モンド公爵」の文字の入ったハートの絵(fig47499_06.png)入る]
 三、貴人痴呆にして物の道理の分らぬこと。公爵を先に立てたコン吉とタヌは、南仏の海岸に名だたる、キャンヌの町からやや離れたポッカの真暗がりの野原を、足で探りながら一歩一歩と進んでゆく。
 闇の中から突然姿を現わす怪物のような野生仙人掌《ノオバアル》に胆《きも》を冷し、人間よりも丈の高い、巨大な竜舌蘭《アロエース》の葉の棘《ばら》に額を打ちつけながら、なおもそろそろと道なきに道を求めて漂流すること一|刻《とき》あまり、やがて、密生した西洋蘆《キャンヌ》の奥の闇の中におぼろに白い姿をさらし、死せるがごとくに固く鎧戸《よろいど》を閉ざした城のような一棟の建物の前にゆきあたった。公爵は甲高い声でカラカラ笑いながら、
「や、とうとうつかまえた、こんなところに隠れていたのか、仕様のない悪戯《いたずら》っ子だぞ! お前は!」と愛撫するように扉のあたりを軽打《タッペ》した。「去年は、あっちのユウカリの樹のそばへつないでおいたのですがね、今年はこんなところへ逃げ出して来ている……ほら、ご覧なさい。ちゃんと鎖で結《ゆわ》えつけておくんですが、いつも鎖を引き切ってしまう」
 なるほど、小庇《こびさし》の下には、緑青の噴《ふ》いた古ぼけた鐘が吊されてあって、その中心から細い鎖が、枯草の中をはって、門の方へどこまでも続いている様子、時々夜の闇をなめるように旋回して来るアンチーブの灯台の、蒼白い光芒の中に浮び出すその荘館《シャトウ》というのは、※[#「てへん+夸」、37−下−12][#「※[#「てへん+夸」、37−下−12]」に傍点]門は崩れ鉄扉は錆び、前面の壁は頂銃眼《クレノオ》のあるあたりまで、猫蔦《ねこつた》の茂るにまかせた見るからにすさまじいさながらの廃墟、時刻はあたかも丑満刻《うしみつどき》、万籟寂として滅し、聴えるものはホイホイというなにやら怪しい物音ばかり。コン吉は早や魂宙外、
「あの、ホイホイという
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