や渦巻きや馬で満員で、もう立錐の余地もなかった。これには十三世もはなはだ焦慮の体《てい》であったが、何を思ったか今度は、引きちぎるようにチョッキの釦《ボタン》をはずして胸を押しひろげるとワイシャツの胸には、野球選手の運動服のように、赤い心臓と次のような文字が刺繍《ししゅう》してあった。
[#「運は天に在り モンド公爵」の文字の入ったハートの絵(fig47499_06.png)入る]
 三、貴人痴呆にして物の道理の分らぬこと。公爵を先に立てたコン吉とタヌは、南仏の海岸に名だたる、キャンヌの町からやや離れたポッカの真暗がりの野原を、足で探りながら一歩一歩と進んでゆく。
 闇の中から突然姿を現わす怪物のような野生仙人掌《ノオバアル》に胆《きも》を冷し、人間よりも丈の高い、巨大な竜舌蘭《アロエース》の葉の棘《ばら》に額を打ちつけながら、なおもそろそろと道なきに道を求めて漂流すること一|刻《とき》あまり、やがて、密生した西洋蘆《キャンヌ》の奥の闇の中におぼろに白い姿をさらし、死せるがごとくに固く鎧戸《よろいど》を閉ざした城のような一棟の建物の前にゆきあたった。公爵は甲高い声でカラカラ笑いながら、
「や、とうとうつかまえた、こんなところに隠れていたのか、仕様のない悪戯《いたずら》っ子だぞ! お前は!」と愛撫するように扉のあたりを軽打《タッペ》した。「去年は、あっちのユウカリの樹のそばへつないでおいたのですがね、今年はこんなところへ逃げ出して来ている……ほら、ご覧なさい。ちゃんと鎖で結《ゆわ》えつけておくんですが、いつも鎖を引き切ってしまう」
 なるほど、小庇《こびさし》の下には、緑青の噴《ふ》いた古ぼけた鐘が吊されてあって、その中心から細い鎖が、枯草の中をはって、門の方へどこまでも続いている様子、時々夜の闇をなめるように旋回して来るアンチーブの灯台の、蒼白い光芒の中に浮び出すその荘館《シャトウ》というのは、※[#「てへん+夸」、37−下−12][#「※[#「てへん+夸」、37−下−12]」に傍点]門は崩れ鉄扉は錆び、前面の壁は頂銃眼《クレノオ》のあるあたりまで、猫蔦《ねこつた》の茂るにまかせた見るからにすさまじいさながらの廃墟、時刻はあたかも丑満刻《うしみつどき》、万籟寂として滅し、聴えるものはホイホイというなにやら怪しい物音ばかり。コン吉は早や魂宙外、
「あの、ホイホイというのは何でしょう」と、震え声でたずねると、大公はしきりに扉の廻りを手探りしながら、
「あれはフィリップさんという梟《ふくろ》の夫婦。いま鳴いてるのは夫人《おくさん》の方です」と、囁《ささや》くように答えた。「令嬢、この扉のそばに『水仙荘《ヴィラ・ナルシス》』と彫りつけた標札があって、そのそばに呼び鈴があるはずですから、ちょっと探してみて下さい」
 タヌは長い夜の探検に疲れたとみえ、草の上に踞《しゃが》み込んでいたが声に応じて門のそばまで進み寄って、マッチをすり、手探りをしいろいろ工風を凝《こら》しているふうだったが、間もなくすぐもどって来た。
「呼び鈴なんかなかったよ、それに、標札には『|三匹の小猿荘《ヴィラ・トロワ・サンジュ》』と彫ってあるんだけど……」
「ほほう、それは奇妙です……でも水仙と猿なら大した違いではありませんね……それにしても呼び鈴がないとは……」と、じれったそうに掌《てのひら》を擦《す》り合わしていたが、突然飛びあがるようにして、
「ああ、そうだ呼び鈴ではない、鐘をたたくのでした。では鐘をたたいてわれわれの到着を知らせましょう」といってジャン、ジャンと二度ばかり軽く鐘をたたいてから、何物かを期待するように腕組みした。しかし、門内はいぜんとしてひそまり返り、いつまで経っても一向人の出て来る気配もない。
 氷のように冷たいアルプス颪《おろし》に、腹の底まで冷えあがったタヌは、そろそろ肝の虫を起こしたとみえ、ばたばた足踏みをしながら、
「もっと、ジャンジャン鳴らしましょうか」というのに、コン吉もその尾鰭《おひれ》につき、
「誰れも出て来ませんが、鐘の音が聴えなかったのではないでしょうか」
「誰れにです」
「つまり、屋内《なか》にいる人に」
「屋内《なか》に人なんぞおりません」と、大公は自若。
 四、天国に行きたければ小さな孔《あな》より入るべし。およそ二三十も鍵のついた大きな鍵束を渡されたコン吉が、一つずつ鍵を扉のところへ押し付けてゴトゴトやっていたが、どれも大き過ぎるか小さ過ぎて合わない――もっとも合わないはずだというのは扉には始めから鍵穴なんかなかったのである。
「どの鍵も駄目です、合いません」
「なるほど、そんな事もあるかもしれない。錠前にだって、その日その日の気分というものがあるでしょうからね、横から入りましょう。さ、こちらへ!」と、一声、絶叫した
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング