ン吉が、詩神《アポロン》の大威業力に依願し、前掲の拙劣なる短詩をコントラ・バスの伴奏にのせ、日ごと毎日わびしげに独唱するところ、凡夫の悲願、タヌキ菩薩もあわれと思召《おぼしめ》し給いけむ二月上旬のとある天気晴朗の朝、避寒ならびにコン吉の脳神経に栄養を与えるため、地中海沿岸の遊楽地へ向けて再度出発することに決定、けだしコン吉が手籠の編目に、三昧の鼻の先を突っ込んで寝こけているのは、いまや大願成就して、欣求《ごんぐ》の南方極楽浄土《コオト・ダジュウル》におもむくその途中にほかならぬ。
 二、問うに落ちて語るに落ちぬ絵入りの禅問答。どこやらで「馬耳塞聖舎婁《マルセーユ・サン・シャルル》」と呼ぶうるさい声々、赤帽《ボルトウル》を呼ぶ口笛と鼓沓然鞄《どたばたかばん》を昇降場《ケエ》に投げ出す音、ひっきりなしに開けられる窓から吹き込む冷たい風……誰れやらの手で不意に触られて、吃驚《びっくり》して飛びあがったコン吉がキョロキョロと隔室《コンパルチマン》のなかを眺むれば、列車はもうよほど以前にマルセーユに到着したものとみえ、相客は一人残らず下車し、あとには泰然と眠るタヌと自分のただ二人、日ごろ小胆なるコン吉は、なんということなく心細くなって、
「モシ、モシ」と、タヌをゆすり起こすと、タヌは、寝ぼけがちなる眼瞼《まぶた》をしばたたきながら、
「あら、また巴里なの」と、神秘的なことをいう。
「いや、ここはマルセーユです。しかしね、あまり寝ると今度は、伊太利《イタリー》の方へ行ってしまうから、ここらで目を覚ましてはどうですか、それにしても夜がふけたとみえて、だいぶ冷えて来たから燃料補給のため、僕はこれから駅食堂《ビュッフェ》へ行ってサンドイッチでも買って来るつもりです。――そちらに何かご注文がありますか」
「熱いショコラを一杯買って来たまえ」
「ショコラを一杯。――もし熱くなかったらどうしますか?」
「機関車へ行って暖めていらっしゃい」
「はい、かしこまりました」と、コン吉が、扉を開けて廊下へ出ようとすると、その一尺ほどの扉の隙間から、凩《こがらし》のようにひょろりと吹き込んで来た一着の銀鼠色《ぎんねずいろ》のモオニング。――黒琥珀《くろこはく》の袋に入れた長い折り畳み式釣竿のごときものを小脇にかかえ、大きな自動車用の塵《ちり》除け眼鏡をかけ、真紅《しんく》の靴下にズックの西班牙靴《エスパドリエイ》をはいた異装の人物。いきなりむずとばかりに、窓ぎわの座席に坐ったと思うと、ポケットから「ラ・トリブーナ」という伊太利語の新聞を取り出し、顔の前にさかさに拡げて読み出したが、やがて「くだらん!」と叫んで新聞をもみくちゃにし、その玉を忌々《いまいま》しそうに足で蹴っ飛ばした。
 大きな眼鏡からはみ出した顔の部分は、雨あがりのセエヌ河の水のようなやや黄濁した色をし、削瘠《さくせき》した顎《あご》の先には、よく刈り込んだアルフォンス十三世式の白い三角髯がくっついていた。
 コン吉とタヌがあっけにとられて眺めているうちに、やや遠くで錚々《ちりちり》と鳴る発車の電鈴《ソンネット》、車掌の呼び子、機関車がどしんと重く客車の緩衝機に突きあたったかと思うと、列車は滑《なめら》かに昇降場《ケエ》をすべり出し、貨物倉庫や車輛のそばをすり抜け、分岐線をがたがたと飛び越えてから、汽笛一声、マルセーユの市街の胴なかに明けられた長い隧道《トンネル》のなかへ走り込んだ。
 アルフォンス十三世は、蒼白い長い指で顎《あご》を押えながら、眼鏡の奥からじろじろ二人の様子を見ていたがややしばらくののち、気息《いき》で曇った汽車の窓ガラスへ、指で次のような、象形文字を丹念に書きつけた。
[#弁髪の男の絵(fig47499_01.png)入る]
 鹿皮の爪磨きで爪を磨きながら、ゆうゆうと十三世の動作を観察していたタヌは、そこで、いきなり立ちあがって窓のそばまでゆき、せっかくの自由画を掌《て》で拭い取ってから、その右上へ、
[#日の丸の絵(fig47499_02.png)入る]
 と、書きつけて、軽蔑したように肩をぴくんとさせた。十三世はしばらく考えていたが、また立って行って、今度は、
[#三の目のサイコロと豚の絵(fig47499_03.png)入る]
 と、書いて、何か問いたげに、タヌの顔をみつめた。タヌは、
「おや! やったね」と東洋語をもって叫んでから
[#馬と鹿の絵(fig47499_04.png)入る]
 と書いたが、これでは、通じないと思い返したものか、また別に、
[#渦巻きの絵(fig47499_05.png)入る]
 を書いて、十三世の頭蓋骨のあたりを指さしてみせた。十三世はまだ何か書きつけたいらしく、しきりに指先をなめずりながら窓を睨んでいたが、残念ながら、ガラスの黒板は、国旗や豚
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