かと思うと、公爵は飛鳥のように身を翻《ひるがえ》して家の横について走りながら西洋蘆《キャンヌ》の中へ消えてしまった。
「これは大変なことになった。せっかく公爵と別懇になって、この冬は碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》にふさわしい快適な生活ができると思ったのに、どうやらあの公爵の脳髄は大分混雑しているようだ。このままのめのめとあの人物の招待に応じていたらわれわれの身辺にまたもや意外な椿事《ちんじ》が起こるかもしれない、波瀾万丈は小説家の好むところだろうが、僕は元来、コントラ・バスの修業に仏蘭西へやって来たのだから、平和な生活の方が望ましい。どうだろう、幸い公爵は裏の方へ行ったようだから逃げ出すなら今のうちだと思うけど……」
 西洋蘆《キャンヌ》の繁みの奥の方をキョトキョトと偸視《ぬすみみ》しながら、コン吉がいうと、タヌは一向意に介しないふうで、
「頭の工合が悪いからこそ、こんな海岸へ養生に来たのよ、だいいち、コン吉にしたところが、同じ目的でやって来たのだから、願ってもない良い仲間《コオパン》じゃないこと、もし幸い君の頭が、あのひとの頭より少しでもましなら、せいぜい看病してあげたまえ、それこそ同病相憐れむっていうものよ、なにしろ公爵は、大きな遊艇《ヨット》や、すばらしい競馬|馬《うま》を持っているそうだから、この冬はずいぶん愉快に暮らせるに違いないわね。ともかく君が何んといってもあの人が話していた『竜の玉』ってのを一目見ないうちは帰らないつもりよ。さ、早く鞄を持ちたまえ、屋内《なか》へ入りましょう。ぐずぐずしないで!」と、早や小走りに歩き出す。
 コン吉はせんかた泣く泣く、大きな帽子箱と鞄とラケットを両手にさげ、とぼとぼとタヌのあとについて荘館《シャトオ》の横手に廻ってみると、大公におかせられては、いまや、欅《けやき》の大掛矢を振い勝手口の階段の横について、石炭を汲み入れる二尺四方ほどの鉄扉に対して大破壊を行なっている様子。
 やがて、鉄扉は長らくの打撃にたえかねたとみえ、ぐゎらりと内部に落ち込んだ。様子見澄ました公爵は、おもむろにハンカチで指をぬぐってから、コン吉に、
「さ、どうぞお入り」と挨拶した。
 コン吉が恐る恐る暗い孔《あな》の中を覗いてみると、はるか七八尺も底の方に、硝子《ガラス》の破片《かけら》のように尖ったものすごい塊炭が、ぞろりの牙をむいているのが見えたから、
「いいえどうぞ、ご主人から」と、懸命に辞退した。
「ご遠慮も時によりましょう。まずまずお通り下さい」
「でも、なんですか、この穴は少しちいさ過ぎると思うんですけど。……それに、多少不潔でもありますし……」
 公爵は爪をかんで、しばらくコン吉の顔をみつめていたがやがて、
「なあに、いざこざはないさ」とつぶやきながら、壁に立て掛けてあった件《くだん》の細長い袋から、菩提樹《ぼだいじゅ》の杖に仕込《しく》んだ、夜目《よめ》にもどきどきするような三稜[#「稜」に傍点]の|細身の剣《ラツピエール》を抜き出して、コン吉の鼻っ先へ突きつけ、さて「這え!」と、もの柔らかに命令した。
 コン吉は吃驚《びっくり》敗亡、何の否やもあらばこそ、仰せのごとくに四ん這いになると、引き続いて、
「穴に頭を突っ込め! お尻をもたげて!」という厳命。されば、コン吉はお尻をもたげ、麒麟《きりん》が池へ水を飲みに来たような姿勢をとると、公爵は、その尻を、
「おう!」という掛け声もろとも、三稜剣《ラツピエール》で横|薙《な》ぎに引っぱたいたから、コン吉はたまらない、
「うわア!」と一声、悲痛な叫びを地上に残して逆落しに石炭|孔《あな》の闇の中へと消えうせた。
 五、二月の空は南方《ミデイ》特有の深い紺碧に澄み渡る。ミモザと駝鳥の首のような、とぼけた竜舌蘭《アロエース》の花が、今を盛りと咲き乱れるキャンヌの公園では、はや朝から陽気な軍楽隊《ファンファル》、エドゥアール七世の銅像の前を、テニス服を着て足早やに行くのは隣りの別荘の英吉利《イギリス》娘。アルパカのタキシイドを着てひょっこり賭博場《キャジノ》から出て来たのは、多分昨夜、コン吉から、三十|法《フラン》ばかり巻きあげたあの憎い|玉廻し《クルウピエ》であろう。
 コン吉が石炭庫の石炭で手ひどくやられた、右足を軽く跛《びっこ》にひきながら、公爵とタヌのあとに附きそって、ブウルガムの広場《スクワアル》をひょろめき下り、しかるのち、オテルサヴォイの露台《テラス》に坐り込んで、アルベエル・エドゥアールの突堤《ジコテ》に続く棕櫚散歩道《パルム・ビーチ》をおもむろに眺めるところ、行くさ来るさの市井雑爼は今日もまた寝巻的散歩服《ジュップ・ピジャマ》の令嬢にあらざれば袖無寛衣《ブルウズ・サン・マンシュ》の夫人《おくさん》、老いたるも若きも珍型異装を誇り顔に漫々然
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング