々《ぶらりぶらり》と練り歩く様子、異装にかけてはあえて人後に落ちざるタヌの身装《いでたち》はとみてあれば、今日はまた一段と趣向を凝らしたとみえ、腰の廻りに荒目昆布のごときびらびら[#「びらびら」に傍点]のついた真紅《しんく》の水浴着《マイヨオ》を一着におよび、クローム製の箍《たが》太やかなるを七八個も右の手頸《てくび》にはめ込んだのは、間もなくこの席にて開催さるべき sporting club の茶話会に対する用意と見受けられた。
 さて、少《すこ》しく精神に異状を呈したと思われる、フィンランドの公爵、モンド氏の古き館《シャトオ》に捕虜となったコン吉ならびにタヌのその後の朝夕は、直接の肉体的被害はすくなかったが、見る事聞くこととかく頓珍漢《とんちんかん》なことばかり、一口にいえば、やや神秘的とも幻想的ともいえる雰囲気《アトモスフェル》の中に、ただ夢に夢見る心持、昨夜も夕景から「|三匹の小猿荘《ヴィラ・トロワ・サンジュ》」の食堂において、聖《サント》ジャンの祭日にちなんだ大饗宴があると披露されたにより、空腹《ひだる》い腹をかかえ、食堂の長椅子にたぐまって片唾《かたず》をのむところ、薦延《せんいん》数時間、ようやく十時真近になって、蓋付きのスウプ容《い》れと三人前の食器を、大いなる銀盆にのせて運び出して来た公爵、ルイ十五世ふうの卓《テーブル》の上にそれを適当に配置してから、
「私《わたくし》はこれから、次の肉皿《アントレ》の仕度にかかりますから、もう少々お待ちを願いましょう」といって、脚の一本ない古風な翼琴《クラヴサン》のそばへ行き、ものしずかにブラアムスの「子守歌」を弾き始めた。
「肉皿《アントレ》には鶫《つぐみ》を差し上げようと思っているのですが、実はその鶫なるものはまだ糸杉《シープレス》の頂《てっぺん》の巣の中で眠っているのです、なにしろね、鶫なんてやつは目覚《めざと》いからこうやって、子守歌でも聴かせて、ぐっすり眠らせておこうと思うのです」
 子守歌は不可思議極まる装飾音の中で跳ね廻り、随所で奔放自在な転調《モジュレエション》を行ないながらようやく最後の静止音までたどり着いた。
 すると公爵は、上品な白髪《しらが》頭の真中を見せて一|揖《しゅう》し、
「ほどなく肉皿《アントレ》も参りましょう。では紳士ならびにご令嬢、どうぞお席へ、前菜《オオ・ドオヴル》でも始めることに致しましょう」と威儀を正して披露《アノンセ》した。
 豊満な期待と共にセルヴェットを膝の上に拡げたコン吉が、白いセエヴル焼のスウプ容れの中をそっと覗いてみると、その中には、クレエムのかかった血のような赤い薔薇が三輪盛られてあった。
 というわけ。
 幻想的な方はまあまあそれでよろしいとして、さて、現実的な方は実に手のつけられないほどの被害があった、というのは、モンド大公は二人をば、日がな毎日、キャンヌの町中を引き廻し社交界に紹介するという名目のもとに、文学趣味の夫人に対しては(日本の最も著名なる小説家である)と紹介し、運動趣味の紳士には(これは日本から派遣されたゴルフの代表選手です、どうぞよろしくお引き廻しのほどを)と推薦し、有名なるキャンヌの賭博場《キャジノ》の経営者《プロプリオ》、アンドレエ氏に対しては(この夫妻はバカラの名人ですよ、手を焼かないように用心なさい。なにしろ、東洋の魔法を心得ていられるのだからね)と人によりその日の気分によって、自由自在な紹介をするところから、コン吉は、いまやキャンヌにおいては、前述のもののほか、有名な天文学者であり、世界一流の馬術の名人であり、曲芸師――予言者――生花の先生――釣魚家《ちょうぎょか》――コルネット吹き――映画の監督――発明家――陸軍砲兵少佐――油断のならぬ間諜……と、天《あめ》が下にありとある名流を一手に引き受け、キャンヌの社交界を向うに廻して、必死の格闘を続けることになったという次第。
 されば公園のベンチでは見も知らぬ夫人に「近ごろ、お作の方はいかがですか」とか、突堤の鼻では老紳士に「沼で姫鱒《ひめます》を釣りますには鋼鉄製の英国ふうの釣竿より、どうも日本《おくに》の胡麻竹の釣竿の方が……」とか思いもかけぬ訊問の奇襲にあうによって、コン吉の市中の散歩は、毎分毎秒、さながら薄氷を踏む思い。
 今日この茶会《ティ・パアティ》で「西洋蘆《キャンヌ》市|運動協会《スポオティングクラブ》」の会長を招待するというのは申すまでもなく、公爵が例の自在なる幻覚によって会長その人に、コン吉を紹介しようという計画に違いない。さてコン吉は、そもそも今日は水泳の選手になるのであろうか。飛行艇《アエロ・キャノオ》の技師になるのであろうかと、しくしく痛む腰を撫でながら、されば戦々恟々《せんせんきょうきょう》。
 六、カランカランと鳴る
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