鐘は旅館《ホテル》や下宿《パンション》の昼餐の合図。あちらの|正通り《ブウルヴァル》、こちらの丘でそれが音色さまざまに触れ出すと、散歩道《プロムナアド》をうろついていた Jupe−pyjama キャフェの派手な大日傘の下にいた 〔Bole'ro〕 さては海馬島の海馬のように砂浜に寝ころんでいた裸人種《ニュディスト》に至るまで、渚から水がひくように一斉に風景の中から姿を消してしまう。飛入台付《ラドオ・プロン》、大筏《ジョン》の上にいたスポオティング・クラブの面々も、口々に「いずれ後刻」といいながら、どぶん、どぶんと海に飛び込んで昼飯めがけて泳いで行ってしまった。筏《いかだ》の上に残ったのは三人の半狂人、いうまでもなく、公爵、タヌならびにコン吉の組合せだけ。
籠手《こて》をかざして眺むれば、キャンヌの町を囲むレステレエルの山の斜面の裾から頭頂《いただき》まで、無数に散在する粋で高尚な荘館《シャトオ》と別荘《ヴィラ》――その間では、いまや霞のような巴旦杏《アマンド》の花盛り、暖い太陽の下では枝もたわわに檸檬《シトロン》が色づき、背景には雪の山頂をきらめかすアルプスの連峰、コルクと松の木の生えたサント・オノラの朱色の岩は、紫紺色の海にその容脚《あし》を浸し、はるかなる水天一髪の海上には鴎《かもめ》のごとくに浮ぶ一艘の三檣帆船《タルタアス》――さながら夢のようなる春景色、和《なご》やかな日射しにほどよく暖められたコン吉の脳髄は、そろそろと睡気を催したとみえ、どうやら混沌たる状態になって来たので、
「どうもうっとりするほどいい心持ですね、見れば公爵も、筏の上で船を漕いでいられる様子、われわれもひとつ、今日は、社交も昼餐も抜きにして、ゆっくりとここで昼寝をしてはどうでしょう。これが社交疲れというのかして、掌《てのひら》は痛むし、首筋は腫れるし、胃袋もどうやら紅茶臭くなっているようだ、その他の部分も少し休養させなくては護謨《ゴム》が伸びてしまう」とコン吉がいうと、タヌも朦朧たる声で「ではね、そこへ(臨時休業)の札を出しておいてちょうだい、よく窓掛けを閉めてね」とぐるりと向うへ寝返りを打ったと思うと、はやすやすやと寝入ってしまった。
「社交なんぞ鱶《ふか》にでも喰われろ、公爵は腹がへったら、一人で陸《おか》まで泳いで行くであろ。こっちはここで睡るばかり」四辺《あたり》関わぬ大|欠伸《あくび》をしてから、筏の上に長くなって、鼾《いびき》をかき始めた。並々ならぬ筏の動揺と、ぞっとするほど冷たい波の潮沫《しぶき》で驚いて眼を覚ましたコン吉がキョロキョロと、四辺《あたり》を眺めるところ、どうやら海上の風景が平素に比べてなんとなく単調な趣を呈しているというのは、筏は、陸《おか》からそれをつないでおく太いロップを断ち切って泳ぎ出しいまやアンチーブの岬のはるか沖合を漂々閑々と漂っている様子。
あっと仰天したコン吉は、たちまち思慮分別を失い、
「やあ! 難船だ、漂流だ!」と時化《しけ》にあった臘虎《ラッコ》船の船長のように、筏の上、地駄婆駄《じたばた》とうろたえ廻ったが、いかにせん、筏はキャンヌの岸を離れることすでに四粁《いちり》余り、叫ぼうにも陸に声の届こうはずはなし、元来この筏なるものは、陸《おか》真近につないで紳士淑女の飛び込みならびに休憩の用に供するために造られたものゆえ、櫓櫂《ろかい》も帆もあろうはずはない、コン吉の狼狽には頓着なく筏は己《おの》が好むにまかせてなおも自在に漂ってゆく。
コン吉の声に夢さまされたタヌはこれも意外な環境に驚き、
「あらま、大変ね、ずいぶん広いわね」と、眼をみはりながら「でもどうしてあのロップが切れたのかしら、ずいぶん丈夫そうな様子だったけど」というと、今まで寂然として顎《あご》の三角髯をひねってた、公爵は、もの柔らかに、
「いや、綱は私《わたくし》がといたのです、綱のせいではありません」と答えた。
「あらま、公爵!」
「どうしてまた!」と、コン吉とタヌが左右から詰め寄ると、公爵は波に戯れる鴎の群れを眼で追いながら、
「このへんには、海岸にそって幅の広い海流《クウラン》がありますから、それに乗りさえすれば黙っててもニースまで行きますから心配なさることはありませんね」
「でもね、僕の荷物はみなキャンヌに置いてあるのですから、ちょっともどって持って来たいのです……つかぬ事を伺うようですが、やはりあっちへ帰る海流《クウラン》っていうのもありましょうか、もし、ありましたらここらでちょいと乗り換えをして……」と、コン吉はなんとか公爵をなだめてキャンヌに引返そうという方寸、公爵はにべもなく、
「こうなった以上、あなた一人のために筏を始発駅にもどすというわけにはゆきませんね、いいじゃないですか、ニースへ行きましょう。明後日から、ニ
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