[スでは有名な謝肉祭《キャルナバアル》が始まりますからね、率直に申しますと、この筏でニースの謝肉祭《キャルナバアル》を見物に行くのが私の希望なのです、自動車もいやなら、汽車もいや、飛行機、ヨット、馬、……みないやです。どうぞそう思っていただきたい」
ああ、またしても、公爵はそろそろ目の色を変え、口調もおいおい切り口上になってゆく様子、このうえ逆らうと、海になぞ投げ出されまいものでもない。タヌはしきりに「黙れ、黙れ」と、コン吉に眼で信号をする、ではもう諦めるより仕様がないのであろう。コン吉は心細い声で、
「大丈夫でしょうね、乗り越すことはないでしょうね」と、念を押すと、
「間違ったら、伊太利《イタリー》へ行くまでです、それで駄目なら南米ネ」と、不興げに横を向いてしまった。
太陽はアルプスの巓を赤紫色に染めて、ようやくその向うへ沈もうとしている、漫々たる海面《うなづら》は青色から濃い灰色に変り、はるかなるフレエジュの山の上に薄黒い雲が徂来するのは、多分今夜、西北風《ミストラル》でもってこのリヴィエラ一帯を吹き荒らそうとする風神《ゼフィロス》の前芸なのであろう。
七、ニース市の光栄、海上より貴人の一行到着さる。苦心|惨憺《さんたん》疲労|困憊《こんぱい》、約十七八時間近くも荒天の海上を漂流したすえ、マルタ島から帰って来た牡蠣《かき》船に拾われてニースの海岸に到着したのは翌日の午後四時ごろ、フィンランドの公爵と二人の上品な東洋人が、筏に乗ってニースの海岸に漂着したという事件は、目撃者には笑い話の種をあたえ、噂だけ聞いた庶民にははなはだ伝奇的《ロマンチック》な興味と昂奮を感じさせた、そのうちでも優秀高雅なニースの社交界に最も感動を与えたのは、その日の「|小ニース人《プチ・ニソワ》」の夕刊の「社交室」に掲載された次のような新聞記事であった。
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本日午後四時四十五分ごろ、ニース市は、予期せざる光栄ある訪問を受けることになった。その貴賓とは、排水量六千|噸《トン》を有する軽巡洋艦のごとき遊艇《ヨット》に搭乗して、カッシニ河岸に到着せられたる支那の王族|張《チャン》氏夫妻、ならびにフィンランドのモンド大公爵である。一行は上陸後、最も完全なる静養をとるため、直ちにジョルジュクレマンソオ街なる平和病院《オピタル・ド・ラ・ペエ》に入院された、ちなみに一行は北極探険よりの帰途なる由
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八、虎を指して猫と呼ぶおたんちんぱれおろがす。気息|掩々《えんえん》たる三着の水浴着《マイヨオ》が、オピタル・ド・ラ・ペエに運び込まれ、一様に39[#「39」は縦中横]度の一夜を明かしたその翌朝、一行は種々なる人士の光栄ある訪問を受けた。
まず劈頭に出現したのは、大きな花束を持った「|小ニース人《プチ・ニソワ》」写真班であった、写真班の希望するところは「花束を持って笑った顔」の写真が一枚撮りたい、というのである。
さればコン吉とタヌは、水浴着《マイヨオ》の胸に薔薇とミモザの花束をいだき、この世にある限りの「笑い顔」をして見せたが、写真班は、どれもこれも一向笑っているようには見えない、というのである。その後もいろいろと苦心経営したが、やがて、反対においおいと腹立たしくなって来たので、笑う方はやめにして普通の顔の前でマグネシュウムを焚いて勘弁してもらった。
公爵の方は、これはしきりにおおげさな身振りをし、笑った顔、威張った顔、泣いた顔と、数種の撮影を強要したが、この方は、多分始めっから取り枠の中に乾板がなかったのであろう。、翌朝の新聞には、いずれの顔も掲載されていなかった。
その次の訪問者は、
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ニース市謝肉祭企画委員[#「ニース市謝肉祭企画委員」は1段階大きな文字]
弁護士 フオル・ボロン[#「弁護士 フオル・ボロン」は1段階大きな文字]
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及び同夫人、同令嬢であった、フオル・ボロン氏は茴香酒《ペルノオ・フィス》の匂いのする赤鼻の肥大漢、同夫人は猫背の近視眼、しかしながら、同令嬢はさながら二月の水仙のごとき、純白の広東縮緬《カントン・クレエプ》の客間着に銀の帯を〆め憧憬《あこがれ》に満ちたあどけない眼を見開きながら、希望の条々につき、綿々とコン吉をかき口説くのであった。
令嬢が希望する条項は、コン吉にとってははなはだ当惑千万、かたがた、多少ならず自尊心というものすら傷つけられる傾向があったので、コン吉にはコン吉の意見があるのである。がしかし菓子箱の蓋の三色版画の中にでもいるようなこの愛《め》ぐしき令嬢の願いを、当惑や自尊心だけで、拒絶していいものであろうか。いずれが是か、いずれが非か、これは、語るままに、令嬢に語らしめて、読者諸賢の判断を乞
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