、よりほかに道はないのであろう、ともかく、この令嬢は、支那ほど神秘的で幻惑的で、そのうえさらに魅惑的な国は、この広い世界に、断じて二つとあるはずはない。
だから、クラブントの「光緒皇帝」はもちろんA氏の「支那の暗黒面」B氏の「上海《シャンハイ》にて」C氏の「青竜刀と弁髪について」その他D氏、E氏、F氏、G氏と……みな再読したが、支那に関する書籍をよんでいる間は、吾身が吾身でないような説明のできぬ微妙な心持がする、というのである。
「ですから、あたし、今度の謝肉祭《キャルナヴァル》には「|支那の旅行《ブォアイヤアジュ・アン・シイヌ》」という題の山車《シャル》を出したいと思うんですの、山車《シャル》のうえの飾り物を三つに区切って、右端は支那の子供が大勢ソラの花の下でダンスをしているところ、真中は五重の塔の中で、若い男の支那人が六絃琴《ギタアル》を弾いて、綺麗な令嬢《ドモアゼル》が歌を唄っているところ、左の端は青竜刀で罪人の首を斬っているところ……まあ、大体こんなふうなんですの、そいで子供も令嬢も昨日|西貢《サイゴン》から着いた安南人《アナミ》に頼むつもりなんですけど、この山車《シャル》の前に、どうしても、繩でしばられて先に立って行く|支那の大官《マンダリナ》がなければ気分が出ないと思うんですの、最初はね、お父さまにお願いするつもりだったんですけど、お父さまは、どうも気が進まないとおっしゃるんですの。それにこんな鼻の赤い支那人なんかありませんでしたわ、どの本にも! なんといってもこの役は、本当の支那の方にやっていただくに越したことはありませんわね。ですから、本当に申し訳ないんですけど。……ぶしつけなんですけど……」
ボロン氏も猫背夫人も、思い余ったというふうに、
「申し訳ありませんが……ぶしつけですが……なにしろ娘が……いえ、なにその……」
と、ひたすら頼み入る、さすがのコン吉もここにおいて、憤然と蹶起《けっき》し、
「あの申し訳ありませんが、僕は支那人ではありません。日本です。どうもとんでもない話だ。だいいち……」と憤《いき》り立ったが、令嬢は相変らず涼しげな眼をみはりながら、
「あら、ちっともかまいませんことよ」と、慰めるようにささやいた。コン吉は、ここで、寝床の上に起きあがり、「そもそも日本は万世一系の……」と日本の日本たる所以《ゆえん》を弁護しようとしかけたが――ああコン吉よ。諦めるがよろしい。一体何を証拠にしてコン吉が支那人にあらずして日本人であることをこの場で証明できるであろう。ああ、旅行券《パスポオト》!
しかし、その旅行券さえ「|三匹の小猿荘《ヴィラ・トロワ・サンジュ》」の寝室の鞄の中にはいっているのである。
九、日本人が欧洲で活躍した一つの実例。マッセナの広場に陣取った、クロワゼットの国墨大隊の軍楽隊が一斉に「マルセーユ」を奏し始めた、ニース市を縦に貫く|勝利大通り《アカニユ・ド・ラ・ヴィクトワアル》に今年の「|謝肉祭の王様《マジェステ・ドュ・キャルナヴァル》」がゆらぎ出したのだ。欧羅巴《ヨーロッパ》に名だたる第四十六回目のニースの謝肉祭の幕はいま切って落されたのだ。大通りの両側には士農工商、貴縉《きけん》紳士、夫人令嬢老若童婢と、雲霞《うんか》のごとく蝟集する中をよろめき歩く貸椅子屋の老婆、行列《マルソウ》の番附《プログラム》を触れ売りする若い衆、コンフェッチを鬻《ひさ》ぐ娘など肩摩轂撃の大雑踏大混雑、行列《マルソウ》の先駆を務めるのは、長い喇叭《コルネット》を持った凛々しき六人の騎士、その後に続くは白兎の毛で縁取りした、空色の天鵞絨《びろうど》の長マントオを着、王冠を冠った「|謝肉祭の女王《レーヌ・ドュ・キャルナヴァル》」いよいよ今年の大山車《グラン・シャアル》「マダマンゴオの娘」が軋《きし》り出せば、家の窓さては、屋根の上からも大山車《グラン・シャアル》目がけて投げつけるコンフェッチの大吹雪。拍手に口笛――「三つの嘴《くちばし》の鵞鳥」「マスコット」はそれぞれ趣向を凝らした大山車《グラン・シャアル》がゆるぎ出しさて「|巴里人の生活《ラ・ヴィ・パリジアン》」という最初の小山車《プチ・シャアル》が通り過ぎると、その後から、胸に竜、背中にと、金糸銀糸で刺繍した長袍[#「袍」に傍点]を着、赤い緞子《どんす》の袴を穿いて現われて来たのはコン吉であった、西班牙《スペイン》の海賊の扮装をした公爵に腰繩を打たれ、長い弁髪を朝風になぶらせながら、鬱々とした面持で、コンフェッチの吹雪の中を進んで行った。――広場のある方へ。
底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1−13−26]」三一書房
1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
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