sあくび》をしてから、筏の上に長くなって、鼾《いびき》をかき始めた。並々ならぬ筏の動揺と、ぞっとするほど冷たい波の潮沫《しぶき》で驚いて眼を覚ましたコン吉がキョロキョロと、四辺《あたり》を眺めるところ、どうやら海上の風景が平素に比べてなんとなく単調な趣を呈しているというのは、筏は、陸《おか》からそれをつないでおく太いロップを断ち切って泳ぎ出しいまやアンチーブの岬のはるか沖合を漂々閑々と漂っている様子。
あっと仰天したコン吉は、たちまち思慮分別を失い、
「やあ! 難船だ、漂流だ!」と時化《しけ》にあった臘虎《ラッコ》船の船長のように、筏の上、地駄婆駄《じたばた》とうろたえ廻ったが、いかにせん、筏はキャンヌの岸を離れることすでに四粁《いちり》余り、叫ぼうにも陸に声の届こうはずはなし、元来この筏なるものは、陸《おか》真近につないで紳士淑女の飛び込みならびに休憩の用に供するために造られたものゆえ、櫓櫂《ろかい》も帆もあろうはずはない、コン吉の狼狽には頓着なく筏は己《おの》が好むにまかせてなおも自在に漂ってゆく。
コン吉の声に夢さまされたタヌはこれも意外な環境に驚き、
「あらま、大変ね、ずいぶん広いわね」と、眼をみはりながら「でもどうしてあのロップが切れたのかしら、ずいぶん丈夫そうな様子だったけど」というと、今まで寂然として顎《あご》の三角髯をひねってた、公爵は、もの柔らかに、
「いや、綱は私《わたくし》がといたのです、綱のせいではありません」と答えた。
「あらま、公爵!」
「どうしてまた!」と、コン吉とタヌが左右から詰め寄ると、公爵は波に戯れる鴎の群れを眼で追いながら、
「このへんには、海岸にそって幅の広い海流《クウラン》がありますから、それに乗りさえすれば黙っててもニースまで行きますから心配なさることはありませんね」
「でもね、僕の荷物はみなキャンヌに置いてあるのですから、ちょっともどって持って来たいのです……つかぬ事を伺うようですが、やはりあっちへ帰る海流《クウラン》っていうのもありましょうか、もし、ありましたらここらでちょいと乗り換えをして……」と、コン吉はなんとか公爵をなだめてキャンヌに引返そうという方寸、公爵はにべもなく、
「こうなった以上、あなた一人のために筏を始発駅にもどすというわけにはゆきませんね、いいじゃないですか、ニースへ行きましょう。明後日から、ニ
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