ノンシャラン道中記
合乗り乳母車 ――仏蘭西縦断の巻――
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巴里《パリー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一九二九年|師走《デラサンブル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Quand nous e'tions deux〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 一、タヌはコン吉に雀の説教。一九二九年|師走《デッサンブル》の三日、ここも北国の慣いとて、はや暮れかかる午後四時ごろ、巴里《パリー》市第十一区|三人姉妹《トロアスウル》街三番地なる棟割長屋《アパルトマン》。その六階の露台に敷布団《マトラ》を敷き、半裸体に引きむかれた狐面《こめん》痩躯《そうく》の東洋人コン吉が、隆々たる筋肉を西北の寒風に吹かせ、前後不覚にわなわなと震えながら、伊太利《イタリー》乾物屋の店先の棒鱈のように寝そべっているのは、当時|欧羅巴《ヨーロッパ》を風靡《ふうび》している裸体主義《ニュディズム》の流行に迎合しているのではない。彼が好むと好まぬにかかわらず、脳神経に栄養を与えるため、一日一時間の日光浴を強制されているのにほかならない。
 さるにてもはるか下界の往来では、三々五々と家路に急ぐ小学生の木底の靴音、さては、「第三版《トワジイム》・硬党新報《アントラン》、夕刊巴里《パリソワ》」と触れ歩く夕刊売りの声も寒く遽《あわ》ただしく、かてて加えて真北に変った強風は、今や大束な霙《みぞれ》さえ交えてにわかに吹きつのる様子。日ごろ鈍感なるコン吉も事態ここに至っては猛然憤起、無情にも眼の前に固く閉ざされた玻璃《ガラス》扉をたたいて、
「もういいかア!」と、必死の悲鳴。すると戸内《なか》から、
「まだよ」と、沈着極まる返答と共に立ち現われたのは、年のころ十八九歳、人間というよりはやや狸に似た愛らしき眼付きの東洋的令嬢。灰色の薄琥珀《タフェタ》の室内服を寛《ゆるや》かに着こなし、いささか熟し過ぎたる橙《だいだい》のごとき頬の色をしているのは、室内の温気《うんき》に上気したためであろうと見受けられた。
「あと何秒ですか?」
「あとまだ二十分よ! 男のくせにそんなみっともない声を出すのはよしたまえ。ほら、君の鼻の頭なんか、さっきよりずっと血色がよくなったよ」
「もう太陽が沈みました。それに雪が降って来ました」
「雪がなんですか! あの元気な雀にすこし見習いたまえ」
「すみませんでした。でもネ、雀はあんな毛布《けっと》を着ているが、僕はこの通り半裸体なもんですから……」
「じゃ、毛布をあげますから、もう十五分|辛棒《しんぼう》していたまえ、いいわね」と、いい捨てたまま、扉《ドア》は閉ざされて、如原《もとのごとし》。
 二、花鉢とおでこの喰合せは一命に関わる。さて、「美しき島」事件で身心耗弱したコン吉が、懐かしい巴里の古巣に帰り着いたのちも、相も変らず、食糧の買い出しから風呂場の修繕、衣裳の塵払い、合唱のお相伴、玄関番《コンシェルジュ》との口論の調停、物もらいとの応待、蓄音器のゼンマイ巻き、小鳥に対する餌《え》の配給、通信事務の遂行、と、丁稚《でっち》輩下のごとく追い使われ、相勤めまする一日十余時間、休みもくれぬ苛酷《ひど》い賦役。タヌにあっては煮られたマカロニのごとく尻腰のないコン吉も、実は、心中無念でたまらない。するとここに十一月中旬の吉日《とあるひ》、かねて辱知の仕立屋の|お針《クウチュリエール》嬢、美術研究所の標本《モデエル》嬢、官文書保存所《アルキシイヴ》の羊皮紙《パルシュマン》氏、天文台区第二十七小区受持の警官|棍棒《クウルダン》氏を、わが共同の邸宅に招き一|夕《せき》盛大なる晩餐会を催すにつき、食堂、玄関、便所の嫌いなく満堂国花をもって埋むべし、という、例によって例のごとき、端倪《たんげい》すべからざるタヌが咄嗟《さっそく》の思い立ち。仰せ承ったコン吉がクウル・ド・ラ・レエヌの花市を駆けずり廻って買い集めた三十六個の菊花の大鉢、――これを一個|宛《ずつ》地階から六階まで担《かつ》ぎ上げているうち、その二十八個目を三階の階段の七段目まで持ち上げたところで不覚にも眼を廻し、すなわち花もろとも、墜落。己《おの》が身は巨大なる千本咲きの、花鉢の下敷きになって気絶して以来、いささか取りとめなき状態となり、にわかに尊大に構え、放歌高唱し、好んでタヌが愛蔵秘珍する物件を破壊するとか、そのうえ、あるまい事か、この四年以来欧州くんだりを遊歴し、つぶさに苦楽をともにした畏敬する相棒《コオバン》、美しきタヌ嬢に対して、
「|やい、この駱駝の雌め《エエ・シャメル・トア》!」の称をもって呼んだというのである。「さあ、|鮫の緬《キャヴィヤ》を持って来い、シトロンを持って来い!」
「いやよ」
「いやよ、とは寛怠至極。しからばこうだ」
「待った、待った! その人形を投げるんじゃないよ。そっとあたしに渡してちょうだい」
「なんの事はない。ほれ、ポイとこの通り」
「うわア、なさけない事になっちゃった」
「吾輩の命令に服従しないと何をするかわからないよ」
「はい、はい。では、どのくらい?」
「ケチな事をいうな、沢山持って来い。それから、湯タンポがぬるくなったから取り換えるがよかろう。ついでに僕の股引《キャルソン》をば洗濯しておくがよろしい」
「癪《しゃく》だわア。覚えていらっしゃい」
「なんですか?」
「いいえ、いますぐ」
 三、美人知恵深く惑障至って少なきこと。おお! 日ごろ温和にして猫のごとく従順な君コン吉が、こんなふうにむやみに乱暴を働くというのは、多分、かねて神経衰弱の徴候をはらんでいた君の頭の鉢が、「変り咲き」の国花の花鉢に接触したとたん、交流した精神錯乱の過剰電気が、君の大脳の電極でスパークしたのに違いないよ。だから、まず手始めにその方の療治を始めなくてはならないわね。神経衰弱というのは日光と熱と塩分と燐、それに肉体と声帯の不足から来ているのだから、その方の不足を補えばいいわけよ。塩分は食塩の中に沢山あるけれど、燐は、――ちょっと思いついた事があるわ。ほら、腐りかけた、烏賊《いか》を台所の暗闇に置いてごらんなさい。烏賊と燐の関係は一目瞭然よ。して見ればわけのない事だわね。コン吉よ、どうかしっかりしてね。あなたを並等《なみ》な状態にかえすためには少しつらいかもしれないけど、こんなふうな即物的な療法が必要だと思うのよ。まず、
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午前  七・三〇 起床。
同   八・〇〇 窒素療法。(最も効果ある深呼吸法)
同   九・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。
同  一〇・一〇 ベンネット式跳躍体操。
同  一一・〇〇 発声療法。(大きな声を出す療法)
同  一一・三〇 カルシウム・ビスケット一個。赤酒五|瓦《グラム》。

午後  一・〇〇 コントラ・バスの演奏。
同   二・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。生の玉葱《たまねぎ》三個。
同   三・〇〇――四・〇〇 日光浴。
同   五・〇〇 熱気療法。(腹と背中へ焼鏝《やきごて》をおっつける療法)
同   六・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。生烏賊一匹。
同   六・三〇 遊戯。
同   七・〇〇 就寝。
[#ここで字下げ終わり]
 ざっとこんな工合にやるつもりなの。じゃ、いいわね。明日《あした》から始めてよ。
 四、鰈《かれい》に附ける薬あれば、猫にも財布の必要あり。タヌの新案にかかる、「脳神経の栄養を主としたる即物的な家庭療法」が、どれほど偉大な効果を有するものであるか、その第一日目の夜半においてコン吉は三十九度の熱を出し、脈搏結帯、上厠頻数《じょうしひんすう》、さてそのあげく、毛細管支炎|喘息《ぜんそく》腐敗食による大腸|加太児《かたる》という、不思議な余病を併発したのによっても明白だというものである。これにはタヌも色を失い改めて医者よ! 薬よ! と、右往左往した末、どうやら一命は取りとめたが、余後はなはだ香《かん》ばしいというわけにはゆかず、今年の冬はぜひとも巴里の冷たい霧から逃れ、南仏蘭西の海岸に日光と塩分を求めて転地しなければならぬという、医師の勧告に従うのやむなきに立ち到った。

 しかるべき手廻りの品も鞄に納り、行先きは岩赤く海碧きサン・ラファイエルの岬か、ミモザと夾竹桃《ロオリエ・ロオズ》の咲くヴィル・フランシュの海岸と定め、早朝から里昂停車場《ギャアル・ド・リヨン》へ座席の予約に行ったタヌは、さてその夕方になってから、はるか谷底の舗道の上で、
「コン吉よ、コン吉よ」と、けたたましく呼ぶのである。素破《すわ》また事件の到来、凶事の発端、と、よろめく足を踏みしめながら、鉄鎧戸《ベライン》を開いて露台から霧の街道を見おろすと、タヌは何やら黒い物体の上に跨《またが》って、はなはだ快適な嬌声をあげているので。
「コン吉よウ! これなんだかあててごらんなさアい!」
「芥箱《ごみばこ》の上なんかで遊んでいないで早く上がって来うい」
「なにいってんのよウ。これは自動車だぞオ!」
「誰れのだあ?」
「買ったのよウ!」
「金はどうしたア?」
「君の為替で買ったんだア」
 そこでコン吉は、まだ充分健康を回復していないせいもあり、かたがた突然の偉大な衝撃にあってにわかに立場を失い、堂とばかりに床の上に尻餅《しりもち》をついた。
 五、寝起きはとかく不機嫌な巴里の冬空。相も変らず霧のような氷雨《ひさめ》は大気を濡らし、共同便所の瓦斯《ガス》灯の舌もまだ蒼白く瞬いている朝の七時ごろ。近くの貨物停車場《ギャアル・マルシャンデイズ》の構内から出て来た牛乳会社の大馬車が、角石畳みの舗道の上を轟落轟落《がらがら》とすさまじい音を立てて駆け過ぎたあとは、往来は急にひっそり閑。聴えるものは遠くの袋小路《アンパッス》で触れる「古服《ダビ》や|屑のお払い《シフォニ》」声ばかり。
 全身を毛布で包み、高からぬ鼻の先だけをつん出したコン吉が、その、夢のような金文字入りの自動車を一見するため、タヌに引っ立てられて歩道《トロトリアル》まで降りて来たが、その場には一向自動車らしいものもない。そこで、コン吉が、まだ夢の中なる寝ぼけ声で、
「自動車というのは一体どこにあるのかね? なにしろ、こう寒くてはかなわないから、見せるなら見せるで、早いとこやってもらいたい。さあ、その車庫《ギャラアジュ》というのへ行こうではないか。僕はこうして腹んとこに湯タンポを支えてるので滑り落ちそうで仕様がない」というと、タヌは派手な男襟巻《マフラア》を巻き付けた顎《あご》で、右手の箱のようなものをしゃくって見せ、
「ここにあるよ。しっかり眼を覚まさなくては駄目ね」と答えたのである。
 さればコン吉は、その薄鉄板《ブリキ》製の茶箱の前後に、生来キョトキョトと落着かぬ視線を走らせて眺めるところ、これは十年ぐらい前には確かに自動車であったに違いない、そういう痕跡は今でもところどころにほのかに残っているのである。――さながら物に脅えた病み猫のごとく背中を丸め、中腰になって構えているその姿というものは、実にこれ酸鼻《さんび》の極み、一九八五年に、初めてブウロオニュの森林公園《ボア》を散歩したパアナアルの石油自動車《ヴォアチュレット》もかくやと思うばかり。踏段《マルシュ》は朽ち前照灯《フェラン》は首を折り、満足に泥除けの付いているのは後ろの車一つだけ。そのうえ、車の背中には、唐草模様の枠の中に、次の様な金文字が麗々しく書かれているのである。
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