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アランベエル商会[#「アランベエル商会」は1段階大きな文字]
[#ここで字下げ終わり]
この華やかな車を一瞥するや否や、あまりの事にコン吉が、
「うわア」と一声、本能的に逃げ出そうとすると、タヌは、優しく後ろから抱《いだ》きとめて、
「コン吉、嬉しいでしょう。嬉しいでしょう」と、軽くコン吉の背中を叩《タペ》するのであった。
「念を入れるようだが、われわれがニースまで自動車旅行《ドリヴェ》するというのはこの車のことなのかね」と、コン吉が恐る恐るうかがいを立てるとタヌは、
「そうですとも」と、流し目で愛《いと》しげに自動車を見やりながら、
「とにかく、車に乗りたまえ。そんなところに愚図愚図《ぐずぐず》しているとまた風邪を引くよ」と、車の方へコン吉を押しやろうとする。
「しかし、あの中へ入っても、一向|戸外《そと》の気候と変りはないというわけは、この自動車には幌も雨除けもないのだからね。僕はこういう状態のままでニースまで、一〇八八粁《にひゃくななじゅうり》もゆられて行くのはどうも心もとない気がするんだ。もし、途中で雨または雪などが降ったならば、一体どうすればいいのだろう」
「わかってる。ほら、あの隅んところに大きな蝙蝠傘《こうもりがさ》を用意しておいたから、あれを拡げると、雨だって風だって防げるわけよ」
「いや、結構です。でもネ、僕はこの通り毛布の下に寝巻《ピジャマ》を着ている始末だから、ちょっと上まで行って……」
ともかく、一|寸《すん》延しにしてその間にしかるべき応急手段を廻《めぐ》らそうという魂胆《こんたん》。タヌは、|四分の三身《トロワ・キャア》という仕立か外套に腕を通し運転用手袋《クーリスパン》をはきながら、
「いいえ、かまわないよ。楽にしていたまえ」と、今にも出発しようという身構え。コン吉は絶体絶命。
「どうもありがとう。……でもネ、僕なんかにこんな自動車はもったいないです」と、ひたすらに辞退する。
「君、もったいないことなんかあるもんですか。汽車で行くよりずっと安あがりだよ。いいわね、ニースまでの汽車賃は一人片道四百|法《フラン》でしょう。それに大鞄《マル》の運賃が二百法、赤帽代二十法、座席の予約料《レセルヴェ》が三法。こいつを往復の計算にすると……」
ここでタヌは、消炭《けしずみ》のかけらを拾って歩道の上へ書きつけた。
[#筆算400×2=800 800+6=806 806+40=846 846+400=1246の図(fig47498_01.png)入る]
「ところで、こいつはたった八百法で買ったんだから、[#ここから横組み]1246−800=446[#ここで横組み終わり]で、四百四十六法も経済したうえに、あたし達は、碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》の春風《はるかぜ》を肩で切りながら、夢のように美しいニースの『英国散歩道《プロムナアド・デザングレ》』や、竜舌蘭《アロエス》の咲いたフェラの岬をドリヴェできるというわけなのよ。この自動車はポルト・オルレアンの古自動車市で買ったんだから、立派とか豪華《リュクス》とかっていうわけにはいかないけれど、なにしろコオト・ダジュウルのことですもの、自動車《オオト》の一つくらい持ってなくては、シュナイダアにもコティにも交際《つきあ》うことは難しいのよ。さあ、コン吉、湯タンポをお腹んところへあてて! 車ん中であまり暴れると、踏み抜くかもしれないから用心しなくてはだめよ。いいわね、さ、出発!」
六、飛んだり跳ねたりマリオネットの兎小僧。北は巴里を基点として、南は仏伊の国境マントンに至る、ここは仏蘭西の※[#5分の4、26−上−8]を縦に貫く坦々たる国有道路《ルウト・ナシォナアル》。この大道を、磨き上げられた宝石のごとき [#ここから横組み]Peugeot−“103”[#ここで横組み終わり]、海鱸《あしか》のごとき Renault の Les Stella、さてはロオルス・ロイス、イスパノスュイザ、――おのがじし軽やかな警笛《シッフル》と香水の匂いを残して、風のごとく爽《さわ》やかに疾駆するうちに、模様入りの考古学的な自動車が、大いなる蝙蝠傘《こうもりがさ》をさした二人の東洋人を乗せ大工場の移転のごとき壮大な爆音をたて、蒙々たるギャソレンの煙幕を張って、あたかも病みあがりのロイマチス患者のごとき蹌踉《そうろう》たる歩調《あしどり》で、大道狭しと漫歩しているのは、まことに荘重類ない眺めであった。進むと見ればたちまち退き、右によろめき左にのめくり、一|上《じょう》一|下《げ》、輾転反側。さればコン吉は、手鍋《キャスロオル》の中で炒《い》られる腸詰のごとく、座席の上で転げ廻りながら、ここを先途《せんど》と蝙蝠傘に獅噛《しがみ》ついている様子。
雑然たる工場と、ボンボンの箱のような小住宅が雑踏する巴里の郊外地帯《バンリュウ》を離れると間もなくブウレエの石切り場にさしかかる。コン吉がこの大震動の間から、そっと偵察の目を押し開けて眺むれば、遠い野面《のづら》には霜に濡れた麦の切株、玻璃鐘《はりしょう》の帽子をかぶせたサラドの促成畑、前庭に果樹園を持った変哲もない百姓小屋、いずれも駱駝《らくだ》色に煤《すす》ぼけ、鳥肌立ったる冬景色。
巴里の市門《ポルト》イヴリイをよろめき出してから三時間あまり、もうオオゼエル村のあたりまで来たのでもあろうかと、ふと何気《なにげ》なく巴里の方を振り返ると、ナント、エッフェル塔は三色旗をかかげて、まだほんの間近にそびえ立っているという有様。これにはコン吉も呆《あき》れ果て、
「どうだろう、これからおいおい速力が出るという工合になるのだろうね。昼飯はオオゼエルの野菜料理屋で、名代のオムレットを喰べさせると君はいったが、もうそろそろ正午《ひる》だというのに、今見たらエッフェル塔はまだ目のしたにある様子だ。このぶんでは、巴里まで引き返して昼飯にした方が早そうだね。どうだろう」と、舌を噛《か》まない様に用心しながら、途切れ途切れにこれだけいうと、タヌは、
「巴里に引き返すといったって、この車は前だけにしか動かないよ。お腹《なか》がすいたら、この籠の中に麺麭《パン》と牛酪《フウル》が入ってるから、それでも喰べて我慢していたまえ」と、背中越しに籠を突き出してよこした。
コン吉は一|切《さい》を運命とあきらめ、包をあけて麺麭《パン》にバタをぬろうとしていたが、やがて、
「タヌ君、どうだろう。麺麭《パン》にバタをぬる間だけ、ちょっと自動車をとめてもらえないだろうか。なにしろ、バタのナイフが眉間《みけん》や喉へ来そうで危なくて仕様がない」
タヌは運転台の鏡の中で眉を顰《ひそ》めながら、
「パンを一口喰べてから、バタを指で掬《すく》って※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]《な》めればいいじゃないの。君もずいぶん馬鹿ね。この車は一度停めたら、動き出すまでにはなかなかだから、停めるわけには行かないよ」
「では、バタの方はそれでいいとして、速力の方をもう少し出してもらうわけには行かないだろうか。僕はもうサラドの畑を見るのは飽き飽きした。少し変った景色も見せてもらいたいものだね」
「でも、これより出すと危ないよ」
「いや、そんな事はあるまい。今すれ違った葬式の馬車だって、この車よりは早く走っていたからね。せめて、あの程度にやってもらいたいものだ」
「君さえ承知なら、やって見ましょうか」といいながら、タヌがぐいと緩急機《デクント》を変えたと思うと、そのとたんコン吉は、ビックリ箱から跳ね出した三毛猫のように座席から飛びあがり、寝巻のままでサラド畑の中へ投げ出された。
さて、難行苦行のすえ、フォンテエヌブウロオの森をはるか左に見、ロアンの運河《キャナアル》にそったモレという町に到着したのは夜の九時過ぎ。この日の行程わずかに六十四粁《じゅうより》。思い遙かす、ニースまではまだこれから千〇二十四粁《にひゃくごじゅうろくり》の長道中。この調子では、今年中にゆきつけるものやら、来年の春までかかるものやら、コン吉は胸を抱《いだ》いてはなはだ憂鬱。
七、雑魚《ざこ》の魚交《ととまじ》り、並びに生簀《いけす》の悶着のこと。翌日の出発は午前七時。タヌに寝床から引きはがされたコン吉は、何を思ったか上衣《うわぎ》の下に剣術《エスクラム》の|胸当て《ブラストロン》のごとき、和製の真綿のチョッキを着込み、腹と腰に花模様の華やかな小布団《クッサン》を巻き付けたのは、多分防寒のためというよりは、街上に投げ出された時の用心のためであるらしかった。パンにはあらかじめバタをぬり、気附《きつけ》薬のために「ナポレオン三世」という銘のある葡萄酒を六本までも仕込んだのは、はなはだ時宜に適した思い付き。タヌはと見れば、これもまた髪を梳《くしけず》り、丹念に爪を磨き、キャロン会社製造の「|謝肉祭の夜《ニュイ・ド・ノエル》」という香水をさえ下着に振り撒《ま》いたのは、その昔、東邦の騎士《キャヴァリエ》が兜《キャスケ》に香を焚きしめたという故事もあり、覚悟のほども察しられて、勇ましくもまた涙ぐましき極みであった。
決死の両士を乗せたアランベエル商会の自動車は、遅々《ちち》としてヨンヌの平野をのたくりゆくうち、ようやく正午《ひる》近く、サンの町の教会の尖塔が、向うの丘の薄陽《うすび》の中に浮びあがって見えるところまで辿り着いた。コン吉は今日こそは正当《まとも》な昼飯にありつけると、心情いささか駘蕩《たいとう》たる趣きを呈《てい》しかけて来たところ、アランベエル商会は、その町の入口で、あたかも道路改修中の柔《やわら》かいアスファルトの層の中へ前足を突っ込んでしまった。さながら蠅取り紙に足を取られた銀蠅の、藻掻《もが》けば藻掻くほど深みに引き込まるる、退《の》くも引くも意に任せず、ここに全く進退|谷《きわ》まった様子。商会の後ろにはこのために往来止めを喰った数十台の高級自動車が、口頭と警笛をもって、「退《ど》け、退け」としきりに催促する。道路工夫はわめく、監督は地団太《じだんだ》を踏む。タヌもようやく焦燥気味《あせりぎみ》で、あちらを捻《ひね》り、こちらを押すが、商会はアリゾナの野における悍馬《かんば》のように、ただ後足でぴょんぴょん跳ねくるばかり、一向に埓《らち》があく様子もない。業《ごう》を煮やした貴縉《きけん》紳士ならびに夫人令嬢は、それぞれ車から降り立って、二人の車を十|重《え》二十重に取り囲み、口々にがやがやと抗議を申し込む。
コン吉はたちまち上気し、鼻の頭に汗をかいてただ埓もなく、
「パルドン、パルドン」の百|万陀羅《まんだら》。これに反してタヌは、群集の口が増せば増すほどいよいよ活況を呈し、四面八方に薙《な》ぎ立てる。
「君、ちょいとその紳士《ムッシュウ》。君はいま、あたしの車を touf−touf《ぼろじどうしゃ》 だといったね。ぼろだって芥箱《ごみばこ》だって大きなお世話だよ。君の自動車を持って来てごらんなさい。どっちが touf−touf《ぼろじどうしゃ》 だかくらべて見てあげるから。なんだイ、髯なんか生やして。……それから、そっちの夫人《マダム》、君はさっき(このやりきれない pouce−pouce《うばぐるま》)といったね。そォお、乳母車のように楽に押せるかどうか、ひとつやって見てくれない?……ねえ諸君、動かないのは車のせいじゃないんだよ。アスファルトのせいなんだよ。こんなところへアスファルトなんか敷くからいけないんだ。これでも苦情があるならいってみてくれない。……さ、誰れでもいいから出ておいで!」
すると、声に応じて心得ありげな一人の流行的紳士が、群集の中から進み出て車の前蓋を開け、しきりにそこここと検閲していたが、さすがの彼もこの超科学的な発動機械には手の付けようがないらしく、やがて諦めて引きさがった。
群集一同は、この紳士を中心にして、しばらく額を集めて協議していたが、やがて衆議一決。タヌの気焔《きえん》に頓着
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