ネく、七八人の手で二人の自動車を、ぬかるみの細い田舎道へ、「一昨日《おととい》来い」とばかりに押し出した。タヌは烈火のごとく猛り立って、
「なんだイ、誰れがあんな気障《きざ》な道なんか通ってやるものか。ね、コン吉、ニースへ行く道は一本きりじゃないよ。あたしは、もうこの道をどこまでもまっすぐに行くことに決めた」と宣言した。コン吉も急に元気|凛々《りんりん》。
「よろしい。僕も賛成です。あんな道を通る必要はない。あれは俗人主義の道だからね。僕たちはこの平和な田舎道を通って、噴水に挨拶《あいさつ》したり、道端の小豚《コション》に戯《からか》ったりしながら、風雅な旅を続けることにしよう」
こうなっては、来年の夏までかかろうが、冬までかかろうが、かまうことではない。山も谷も恐るるところに非《あら》ず、どこまでもこの道を辿《たど》ってニースまで行き着こう、と、二人で固く誓いを立て、また蹌踉《そうろう》たる前進を続けるのであった。
八、月に村雲花に風、犬も歩けば弾丸《たま》に当る。さて、ヴァンヌの川を横に突っ切り、ヴィルヌウヴ・S・Yの二等|堡塁《ほるい》を右に見て、道なき道を求めながら行くうちに、人里離れた乾沢地の低い築堤のそばまで来かかった。このあたりは一面の荒涼たる枯葦原。遠くには夕陽に燃えあがるペエ・ドオトの山の斜面、風に戦《おのの》くものは枯草と野薔薇の枝、鳴くものは嘴《くちばし》の赤い鴉《からす》ばかり。
二人は大言壮語したものの、この冬枯れの夕景色を見ているうちに、行く末のことも思われて、なんとなく泣き出したいような心持。克明に前進を続ける気力も失《う》せて、その土堤《どて》のそばへ車を停め、言葉もなく枯草の上に足を投げ出した。
コン吉がそこで、残り少なになった巻煙草入れから煙草を一本抜き出して、いま火を点《つ》けようとしたとたん、口笛のような鋭い弾道の音をひいて飛んで来た砲弾が、二人のつい鼻っさきの土堤の横っ腹で轟然《ごうぜん》と炸裂した。
「うわア!」と、仰天する暇もなく、続いて飛来した第二弾。車の後輪をかすめて、また土堤の側面で壮大な土煙《つちけむり》をあげる。
驚破《すわ》、このへんでいよいよ仏独戦争が始まったのに違いない。地球の向う側から、はるばる欧羅巴《ヨーロッパ》くんだりまでやって来て、流れ弾《だま》に当って討ち死にするのはいかにも残念。ともかくまず逃げるに限ると、期せずして二人が手を取り合って、闇雲に駆け出そうとすると、土堤の右手の壕《ほり》のようなところから、鉄甲《てつかぶと》をかぶった水色羅紗の兵士が一人携帯電話機の受話器だけを持って跳《おど》り出し、大喝一声、
「|止れ《アレテ》!」と、縮みあがるような凄味《すごみ》のある声でどなりつけた。たちまちセエヴル焼の人形のようにこわばってしまった二人の前へ駆け寄って来た兵士、今度は何を立腹したのか、いきなり、
「馬鹿野郎《アンベシイル》!」と我鳴《がな》った。「|どこへ行くか《ウ・ヴ・ザレ》」
「あの、ニースまで行くんですけれど」
「|なぜこんな処を通行するか《プルコア・パッセ・ヴ・パル・ラ》」
「あら、いけないの」
そこで兵士は、迂散《うさん》くさそうにじろじろ見すえてから、
「|君達の国籍はどこか《ケル・ナシオナリテ》」
「大日本帝国」
「旅行券《ヴォ・パピエ》!」
コン吉が恐る恐る差し出した旅券の写真と二人の顔をまたじろじろ見くらべてから、
「|写真機を持ってるか《ヴ・ザヴェ・ド・コダック》」
「ええ、あってよ」と、タヌはそろそろ中腹な声を出し始める。
「|この辺で撮影したか《ヴ・ザヴェ・チレ・パ・ラ・アロウ》?」
「そんな暇なかったよ」
タヌのこういう語調は、コン吉には心配でたまらない。もし、この兵士を怒らせたら、――元来兵隊さんは恐いものにきまってる。おずおずとそばから割り込んで、ゆがんだような愛想笑いをしながら、
「兵士君、とんでもない話ですよ。われわれは、写真などはまるっきり……」
「|一緒に要塞司令部まで来たまえ《ヌ・ザロン・ザンサンブル・オウ・マジョオル》!」
「でも……」
「|ま、いいから来たまえ《エ・ビヤン・アレ》!」
二人の自動車はまた枯野原を通って引き返し、やがて見あげるように高い突角堡《ルダン》の正面に行き着いた。二人は自動車から引きおろされ、アーチ形の暗い坑道を通り、細長い側防兵舎《キャボンニェール》の中に連れ込まれそこで写真機を取りあげられて、固い木の床几《バンコ》のうえで一時間近くも待たされたうえ一段と奥まった部屋へ導かれた。正面の大きな机の向うに、いろいろな平面図や断面図を背にしてすわっているのは、伍長でもあろうか大将でもあろうか、赭顔《しゃがん》白髪の堂々たる風貌の軍人。
ああこれは大変なことになった。このぶんではひょっとしたらスパイの嫌疑を受けて、こっそり殺されてしまうのであろう。そういう話を確かに聞いた事がある。これはいきなり謝《あやま》ってしまうに限る、とコン吉は、まだ椅子にもすわらぬうちに、
「大将さま、ごかんべんなすって下さい」と、東洋風にぺこぺこ頭をさげて嘆願した。大将は苦《にが》りきった顔で、
「射程標識の前で寝ころんでいる馬鹿があるか!」と、吐き出すようにいった。「観測兵が発見しなかったら、君達は今ごろどんなになっていたかわからんぞ」
「すみませんでした」と、さすがのタヌも大将にかかっては手も足も出ない様子。
何のためにこんな道を通るか、とか、この先、どこへ行くつもりか、とか、いろいろしちくどく訊問されたうえ、乾板を没収され、懇々《こんこん》と将来を戒《いまし》められて放免されたのは夕方の六時ごろ。その写真機をお下げ渡しになる時、大将は、
「種板には豚の子ばかし写っとったそうだ」と、ひとこと附け加えてくれた。
九、家には白鼠あれば山には背広の紳士あり。サン・フロランタンの町はすぐそこだ、と要塞を出る時聞いたのだが、いつまで行っても山また山。どうやら、名だたるペエ・ドオトの山道に迷い込んでしまった様子。地勢はこのへんから急に昇《たかま》って、石に阻《はば》まれたり窪地で途切られたりする、曲りくねった小径《こみち》が一筋かすかに続いているばかり。漆のような闇の中から突然浮び出す白骨のような樺の朽木。吹く風も妙に湿って、さながら陰府《よみ》からでも吹いて来たよう。このもの凄《すご》い山道を乏しい前照灯《フェラン》の光りだけで辿《たど》って行く心細さ、恐ろしさ。臆病未練なコン吉は、もう魂も身にそわないような心持。すると、横手の小道から、この寒空に、外套も着ず帽子もかぶらぬ、三十歳ぐらいの奇妙な男が現われて、
「いよウ」と、二人に快活な声をかけた。二人は天の助けと喜んで、サン・フロランタンへ出る道をたずねると、その男は車の扉《ドア》に手を掛けて並んで歩きながら、
「なアに、じきでさ」と、事もなげに答えた。
「この道をまっすぐに行けばいいのね」と、タヌがたずねると、
「ええ、まあ、そうでしょう」という返事。
「もう一時間ぐらい?」
「なアに、じきでさ。お嬢さん、お急ぎですか」と、妙な事をいう。
「そうよ。誰れがこんな暗い山の中にいたいもんですか」すると、男はそれを聞き流して、コン吉に、
「ときに、いく時ごろだろう」と、きく。
コン吉が時計を出して、今は八時十分だ、と、おろおろしながら答えると、男はその時計をちらりと見て、
「おや、とんだ良《い》い時計《オアニヨン》だ」と、ニヤリと笑ってから、「お前さん達は、安南人《アナミ》かね、支那人《シノア》かね」
「ジャポネです」
「ジャポネね? ふうむ」といって、しばらく何か考えていたが、「俺あね、日本人にあいたいあいたいと思っていたんだぜ。……こんな山ン中で日本人にあえようとは思わなかった」あとはひとりごとのように、「とんだいい廻《めぐ》り合せだ」といった。「そうさ、今から六年ぐらい前の話だ。俺の弟はなあ、ツウロンの酒場《マストロケ》で日本人の水兵《コル・ブルウ》に短剣《ポアニエ》で眠らされたんだ。弟はそのころ威勢のいい古服屋《フリピエ》だったんだが、その晩|酒場《そこ》で女《プウル》を連れて一杯やッていたっていうんだ。するその水兵《マアチュウル》が来やがって、どうしてもその女《プウル》と踊《ジゴテ》するというんだ。弟の野郎が腹を立てて、そいつの横っ面を平手打《ジフル》したところが、いきなり引っこ抜いて弟の頭《ボワアル》へ突っ通したんだ。弟は血だまりん中へ突っぷしてしまう、亭主《プロブリオ》が驚いて戸外《そと》へ飛び出して巡査《フリック》を呼んでる暇に、|その畜生《ゴンズ》が辻馬車《サバン》に乗ってどっかへ行ってしまったというんだ。……それっきりさ。どうにも仕様がありゃしない。……だから俺あ、一度|日本人《ジャポネ》にあってよくお礼をいいてえと思っていたのさ」といってから、いかにも満足でたまらない、といったふうに、ヒュウ! と短く鋭い口笛を吹いた。タヌは少し蒼い顔をしながら、
「そイで、君何をしようっていうの? 妙なことをすると喇叭《ホンク》を鳴らして人を呼んでよ」
すると男は妙な苦笑をしながら、
「自動車の喇叭《ホンク》を聞いて飛び出して来るのは旅館《オテル》の召使《バレエ》だけさ」といっておいて、急にコン吉の方に向き直り、
「おい、若いの。先刻《さっき》からいやに黙ってるじゃねえか。……|乙に澄ますねえ《フェ・パ・マラン・トア》、やい!」と、いきなり扉《ドア》越しにコン吉の脇腹を小突《こづ》いた。コン吉は螽斯《ばった》のように飛びあがって、
「お助け下さい」と、手を合せた。
男は、ニヤニヤ笑ってコン吉を見ていたが、やがて |〔Quand nous e'tions deux〕《おまえとふたりでいたときにゃ》 という小唄を口笛で吹きながら、横の小道の方へ入って行ってしまった。
どこを、どう辿《たど》ったのかまるで夢中でサン・フロランタンの「|旅館・金の鶏《オテル・コックドル》」というのにころげこんだのは九時近く。二人は九死一生の思い。――食卓をへだてて顔を見合せながら、たがいの無事を祝っていると、さっきの男が鬱金《うこん》色の|前掛け《タブリエ》を胸から掛けて、スウプの鉢を持ち出して来た。コン吉は、
「や、また来た!」といって立ちあがろうとすると、男は卓《テーブル》の上へ鉢を置きながら、
「日本人《ジャポネ》ってのは野蛮で勇気がある、ってことを聴いていたが、あなたの臆病なのには驚いた。もっともあなたの様なひとばかしじゃないんでしょうが……」といって笑った。
一〇、失せ物は巽《たつみ》の方の栗《マロニエ》の根元を探すべし。デイジョンを過ぎ、ボウム駅の手前の、ニュイ・サン・ジャンという町へ着いたのはそれから三日の後《のち》のこと。するとその晩、この愛すべき自動車は中へ突っ込んでおいた「ナポレオン三世」の瓶や上靴ももろ共に何者かに窃取された。こんなものは誰れも持って行くまいと安心して、市場の前の庭へ投げ出して置いたのが悪かったのだ。芥箱《ごみばこ》であれ touf−touf であれ、あれはわれわれの財産だ。とりあえずその町の分署へ行って、机の前で泰然と腕組みしている署長に訴えた。
「署長さん、実は昨夜《ゆうべ》、われわれの車《マシン》が盗まれました」
「ほほう、どんな車《マシン》だね?」
「二人乗るくらいの、ほんのちょっとしたやつなんですけど」
「番号は何番じゃったね」
「あの車に番号なんかあったかしら?」
署長は大きな帳面を引き出して、親指の腹を※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]《な》めあげ※[#「舌+低のつくり」、第3水準1−90−58]めあげ頁《ページ》を繰《く》っていたが、
「盗まれたのは何日《いつ》だといったかね?」
「昨夜《ゆうべ》なんですの」
「昨夜《ゆうべ》? いや、そんな事はあるまい。もう六ヵ月にもなっている。あんた達の車というのは、拾得物としてちゃんと届け出てありますぞ。ご安心なさるがいい。今、
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