A隆々たる筋肉を西北の寒風に吹かせ、前後不覚にわなわなと震えながら、伊太利《イタリー》乾物屋の店先の棒鱈のように寝そべっているのは、当時|欧羅巴《ヨーロッパ》を風靡《ふうび》している裸体主義《ニュディズム》の流行に迎合しているのではない。彼が好むと好まぬにかかわらず、脳神経に栄養を与えるため、一日一時間の日光浴を強制されているのにほかならない。
さるにてもはるか下界の往来では、三々五々と家路に急ぐ小学生の木底の靴音、さては、「第三版《トワジイム》・硬党新報《アントラン》、夕刊巴里《パリソワ》」と触れ歩く夕刊売りの声も寒く遽《あわ》ただしく、かてて加えて真北に変った強風は、今や大束な霙《みぞれ》さえ交えてにわかに吹きつのる様子。日ごろ鈍感なるコン吉も事態ここに至っては猛然憤起、無情にも眼の前に固く閉ざされた玻璃《ガラス》扉をたたいて、
「もういいかア!」と、必死の悲鳴。すると戸内《なか》から、
「まだよ」と、沈着極まる返答と共に立ち現われたのは、年のころ十八九歳、人間というよりはやや狸に似た愛らしき眼付きの東洋的令嬢。灰色の薄琥珀《タフェタ》の室内服を寛《ゆるや》かに着こなし、いささか
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