怩オていないせいもあり、かたがた突然の偉大な衝撃にあってにわかに立場を失い、堂とばかりに床の上に尻餅《しりもち》をついた。
 五、寝起きはとかく不機嫌な巴里の冬空。相も変らず霧のような氷雨《ひさめ》は大気を濡らし、共同便所の瓦斯《ガス》灯の舌もまだ蒼白く瞬いている朝の七時ごろ。近くの貨物停車場《ギャアル・マルシャンデイズ》の構内から出て来た牛乳会社の大馬車が、角石畳みの舗道の上を轟落轟落《がらがら》とすさまじい音を立てて駆け過ぎたあとは、往来は急にひっそり閑。聴えるものは遠くの袋小路《アンパッス》で触れる「古服《ダビ》や|屑のお払い《シフォニ》」声ばかり。
 全身を毛布で包み、高からぬ鼻の先だけをつん出したコン吉が、その、夢のような金文字入りの自動車を一見するため、タヌに引っ立てられて歩道《トロトリアル》まで降りて来たが、その場には一向自動車らしいものもない。そこで、コン吉が、まだ夢の中なる寝ぼけ声で、
「自動車というのは一体どこにあるのかね? なにしろ、こう寒くてはかなわないから、見せるなら見せるで、早いとこやってもらいたい。さあ、その車庫《ギャラアジュ》というのへ行こうではないか。僕はこうして腹んとこに湯タンポを支えてるので滑り落ちそうで仕様がない」というと、タヌは派手な男襟巻《マフラア》を巻き付けた顎《あご》で、右手の箱のようなものをしゃくって見せ、
「ここにあるよ。しっかり眼を覚まさなくては駄目ね」と答えたのである。
 さればコン吉は、その薄鉄板《ブリキ》製の茶箱の前後に、生来キョトキョトと落着かぬ視線を走らせて眺めるところ、これは十年ぐらい前には確かに自動車であったに違いない、そういう痕跡は今でもところどころにほのかに残っているのである。――さながら物に脅えた病み猫のごとく背中を丸め、中腰になって構えているその姿というものは、実にこれ酸鼻《さんび》の極み、一九八五年に、初めてブウロオニュの森林公園《ボア》を散歩したパアナアルの石油自動車《ヴォアチュレット》もかくやと思うばかり。踏段《マルシュ》は朽ち前照灯《フェラン》は首を折り、満足に泥除けの付いているのは後ろの車一つだけ。そのうえ、車の背中には、唐草模様の枠の中に、次の様な金文字が麗々しく書かれているのである。
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鉄骨入|婦人胴着《コルセ》一手販売[#「鉄骨入|婦人胴着《コルセ》一手販売」は1段階大きな文字]

           アランベエル商会[#「アランベエル商会」は1段階大きな文字]
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 この華やかな車を一瞥するや否や、あまりの事にコン吉が、
「うわア」と一声、本能的に逃げ出そうとすると、タヌは、優しく後ろから抱《いだ》きとめて、
「コン吉、嬉しいでしょう。嬉しいでしょう」と、軽くコン吉の背中を叩《タペ》するのであった。
「念を入れるようだが、われわれがニースまで自動車旅行《ドリヴェ》するというのはこの車のことなのかね」と、コン吉が恐る恐るうかがいを立てるとタヌは、
「そうですとも」と、流し目で愛《いと》しげに自動車を見やりながら、
「とにかく、車に乗りたまえ。そんなところに愚図愚図《ぐずぐず》しているとまた風邪を引くよ」と、車の方へコン吉を押しやろうとする。
「しかし、あの中へ入っても、一向|戸外《そと》の気候と変りはないというわけは、この自動車には幌も雨除けもないのだからね。僕はこういう状態のままでニースまで、一〇八八粁《にひゃくななじゅうり》もゆられて行くのはどうも心もとない気がするんだ。もし、途中で雨または雪などが降ったならば、一体どうすればいいのだろう」
「わかってる。ほら、あの隅んところに大きな蝙蝠傘《こうもりがさ》を用意しておいたから、あれを拡げると、雨だって風だって防げるわけよ」
「いや、結構です。でもネ、僕はこの通り毛布の下に寝巻《ピジャマ》を着ている始末だから、ちょっと上まで行って……」
 ともかく、一|寸《すん》延しにしてその間にしかるべき応急手段を廻《めぐ》らそうという魂胆《こんたん》。タヌは、|四分の三身《トロワ・キャア》という仕立か外套に腕を通し運転用手袋《クーリスパン》をはきながら、
「いいえ、かまわないよ。楽にしていたまえ」と、今にも出発しようという身構え。コン吉は絶体絶命。
「どうもありがとう。……でもネ、僕なんかにこんな自動車はもったいないです」と、ひたすらに辞退する。
「君、もったいないことなんかあるもんですか。汽車で行くよりずっと安あがりだよ。いいわね、ニースまでの汽車賃は一人片道四百|法《フラン》でしょう。それに大鞄《マル》の運賃が二百法、赤帽代二十法、座席の予約料《レセルヴェ》が三法。こいつを往復の計算にすると……」
 ここでタヌは、消炭《けしずみ》のかけらを
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