髓ソする物件を破壊するとか、そのうえ、あるまい事か、この四年以来欧州くんだりを遊歴し、つぶさに苦楽をともにした畏敬する相棒《コオバン》、美しきタヌ嬢に対して、
「|やい、この駱駝の雌め《エエ・シャメル・トア》!」の称をもって呼んだというのである。「さあ、|鮫の緬《キャヴィヤ》を持って来い、シトロンを持って来い!」
「いやよ」
「いやよ、とは寛怠至極。しからばこうだ」
「待った、待った! その人形を投げるんじゃないよ。そっとあたしに渡してちょうだい」
「なんの事はない。ほれ、ポイとこの通り」
「うわア、なさけない事になっちゃった」
「吾輩の命令に服従しないと何をするかわからないよ」
「はい、はい。では、どのくらい?」
「ケチな事をいうな、沢山持って来い。それから、湯タンポがぬるくなったから取り換えるがよかろう。ついでに僕の股引《キャルソン》をば洗濯しておくがよろしい」
「癪《しゃく》だわア。覚えていらっしゃい」
「なんですか?」
「いいえ、いますぐ」
 三、美人知恵深く惑障至って少なきこと。おお! 日ごろ温和にして猫のごとく従順な君コン吉が、こんなふうにむやみに乱暴を働くというのは、多分、かねて神経衰弱の徴候をはらんでいた君の頭の鉢が、「変り咲き」の国花の花鉢に接触したとたん、交流した精神錯乱の過剰電気が、君の大脳の電極でスパークしたのに違いないよ。だから、まず手始めにその方の療治を始めなくてはならないわね。神経衰弱というのは日光と熱と塩分と燐、それに肉体と声帯の不足から来ているのだから、その方の不足を補えばいいわけよ。塩分は食塩の中に沢山あるけれど、燐は、――ちょっと思いついた事があるわ。ほら、腐りかけた、烏賊《いか》を台所の暗闇に置いてごらんなさい。烏賊と燐の関係は一目瞭然よ。して見ればわけのない事だわね。コン吉よ、どうかしっかりしてね。あなたを並等《なみ》な状態にかえすためには少しつらいかもしれないけど、こんなふうな即物的な療法が必要だと思うのよ。まず、
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午前  七・三〇 起床。
同   八・〇〇 窒素療法。(最も効果ある深呼吸法)
同   九・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。
同  一〇・一〇 ベンネット式跳躍体操。
同  一一・〇〇 発声療法。(大きな声を出す療法)
同  一一・三〇 カルシウム・ビスケット一個。赤酒五|瓦《グラム》。

午後  一・〇〇 コントラ・バスの演奏。
同   二・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。生の玉葱《たまねぎ》三個。
同   三・〇〇――四・〇〇 日光浴。
同   五・〇〇 熱気療法。(腹と背中へ焼鏝《やきごて》をおっつける療法)
同   六・〇〇 食塩水五〇〇|瓦《グラム》。生烏賊一匹。
同   六・三〇 遊戯。
同   七・〇〇 就寝。
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 ざっとこんな工合にやるつもりなの。じゃ、いいわね。明日《あした》から始めてよ。
 四、鰈《かれい》に附ける薬あれば、猫にも財布の必要あり。タヌの新案にかかる、「脳神経の栄養を主としたる即物的な家庭療法」が、どれほど偉大な効果を有するものであるか、その第一日目の夜半においてコン吉は三十九度の熱を出し、脈搏結帯、上厠頻数《じょうしひんすう》、さてそのあげく、毛細管支炎|喘息《ぜんそく》腐敗食による大腸|加太児《かたる》という、不思議な余病を併発したのによっても明白だというものである。これにはタヌも色を失い改めて医者よ! 薬よ! と、右往左往した末、どうやら一命は取りとめたが、余後はなはだ香《かん》ばしいというわけにはゆかず、今年の冬はぜひとも巴里の冷たい霧から逃れ、南仏蘭西の海岸に日光と塩分を求めて転地しなければならぬという、医師の勧告に従うのやむなきに立ち到った。

 しかるべき手廻りの品も鞄に納り、行先きは岩赤く海碧きサン・ラファイエルの岬か、ミモザと夾竹桃《ロオリエ・ロオズ》の咲くヴィル・フランシュの海岸と定め、早朝から里昂停車場《ギャアル・ド・リヨン》へ座席の予約に行ったタヌは、さてその夕方になってから、はるか谷底の舗道の上で、
「コン吉よ、コン吉よ」と、けたたましく呼ぶのである。素破《すわ》また事件の到来、凶事の発端、と、よろめく足を踏みしめながら、鉄鎧戸《ベライン》を開いて露台から霧の街道を見おろすと、タヌは何やら黒い物体の上に跨《またが》って、はなはだ快適な嬌声をあげているので。
「コン吉よウ! これなんだかあててごらんなさアい!」
「芥箱《ごみばこ》の上なんかで遊んでいないで早く上がって来うい」
「なにいってんのよウ。これは自動車だぞオ!」
「誰れのだあ?」
「買ったのよウ!」
「金はどうしたア?」
「君の為替で買ったんだア」
 そこでコン吉は、まだ充分健康を回
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