アのぶんではひょっとしたらスパイの嫌疑を受けて、こっそり殺されてしまうのであろう。そういう話を確かに聞いた事がある。これはいきなり謝《あやま》ってしまうに限る、とコン吉は、まだ椅子にもすわらぬうちに、
「大将さま、ごかんべんなすって下さい」と、東洋風にぺこぺこ頭をさげて嘆願した。大将は苦《にが》りきった顔で、
「射程標識の前で寝ころんでいる馬鹿があるか!」と、吐き出すようにいった。「観測兵が発見しなかったら、君達は今ごろどんなになっていたかわからんぞ」
「すみませんでした」と、さすがのタヌも大将にかかっては手も足も出ない様子。
 何のためにこんな道を通るか、とか、この先、どこへ行くつもりか、とか、いろいろしちくどく訊問されたうえ、乾板を没収され、懇々《こんこん》と将来を戒《いまし》められて放免されたのは夕方の六時ごろ。その写真機をお下げ渡しになる時、大将は、
「種板には豚の子ばかし写っとったそうだ」と、ひとこと附け加えてくれた。
 九、家には白鼠あれば山には背広の紳士あり。サン・フロランタンの町はすぐそこだ、と要塞を出る時聞いたのだが、いつまで行っても山また山。どうやら、名だたるペエ・ドオトの山道に迷い込んでしまった様子。地勢はこのへんから急に昇《たかま》って、石に阻《はば》まれたり窪地で途切られたりする、曲りくねった小径《こみち》が一筋かすかに続いているばかり。漆のような闇の中から突然浮び出す白骨のような樺の朽木。吹く風も妙に湿って、さながら陰府《よみ》からでも吹いて来たよう。このもの凄《すご》い山道を乏しい前照灯《フェラン》の光りだけで辿《たど》って行く心細さ、恐ろしさ。臆病未練なコン吉は、もう魂も身にそわないような心持。すると、横手の小道から、この寒空に、外套も着ず帽子もかぶらぬ、三十歳ぐらいの奇妙な男が現われて、
「いよウ」と、二人に快活な声をかけた。二人は天の助けと喜んで、サン・フロランタンへ出る道をたずねると、その男は車の扉《ドア》に手を掛けて並んで歩きながら、
「なアに、じきでさ」と、事もなげに答えた。
「この道をまっすぐに行けばいいのね」と、タヌがたずねると、
「ええ、まあ、そうでしょう」という返事。
「もう一時間ぐらい?」
「なアに、じきでさ。お嬢さん、お急ぎですか」と、妙な事をいう。
「そうよ。誰れがこんな暗い山の中にいたいもんですか」すると、男
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