ゥくまず逃げるに限ると、期せずして二人が手を取り合って、闇雲に駆け出そうとすると、土堤の右手の壕《ほり》のようなところから、鉄甲《てつかぶと》をかぶった水色羅紗の兵士が一人携帯電話機の受話器だけを持って跳《おど》り出し、大喝一声、
「|止れ《アレテ》!」と、縮みあがるような凄味《すごみ》のある声でどなりつけた。たちまちセエヴル焼の人形のようにこわばってしまった二人の前へ駆け寄って来た兵士、今度は何を立腹したのか、いきなり、
「馬鹿野郎《アンベシイル》!」と我鳴《がな》った。「|どこへ行くか《ウ・ヴ・ザレ》」
「あの、ニースまで行くんですけれど」
「|なぜこんな処を通行するか《プルコア・パッセ・ヴ・パル・ラ》」
「あら、いけないの」
 そこで兵士は、迂散《うさん》くさそうにじろじろ見すえてから、
「|君達の国籍はどこか《ケル・ナシオナリテ》」
「大日本帝国」
「旅行券《ヴォ・パピエ》!」
 コン吉が恐る恐る差し出した旅券の写真と二人の顔をまたじろじろ見くらべてから、
「|写真機を持ってるか《ヴ・ザヴェ・ド・コダック》」
「ええ、あってよ」と、タヌはそろそろ中腹な声を出し始める。
「|この辺で撮影したか《ヴ・ザヴェ・チレ・パ・ラ・アロウ》?」
「そんな暇なかったよ」
 タヌのこういう語調は、コン吉には心配でたまらない。もし、この兵士を怒らせたら、――元来兵隊さんは恐いものにきまってる。おずおずとそばから割り込んで、ゆがんだような愛想笑いをしながら、
「兵士君、とんでもない話ですよ。われわれは、写真などはまるっきり……」
「|一緒に要塞司令部まで来たまえ《ヌ・ザロン・ザンサンブル・オウ・マジョオル》!」
「でも……」
「|ま、いいから来たまえ《エ・ビヤン・アレ》!」

 二人の自動車はまた枯野原を通って引き返し、やがて見あげるように高い突角堡《ルダン》の正面に行き着いた。二人は自動車から引きおろされ、アーチ形の暗い坑道を通り、細長い側防兵舎《キャボンニェール》の中に連れ込まれそこで写真機を取りあげられて、固い木の床几《バンコ》のうえで一時間近くも待たされたうえ一段と奥まった部屋へ導かれた。正面の大きな机の向うに、いろいろな平面図や断面図を背にしてすわっているのは、伍長でもあろうか大将でもあろうか、赭顔《しゃがん》白髪の堂々たる風貌の軍人。
 ああこれは大変なことになった。
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