nし過ぎたる橙《だいだい》のごとき頬の色をしているのは、室内の温気《うんき》に上気したためであろうと見受けられた。
「あと何秒ですか?」
「あとまだ二十分よ! 男のくせにそんなみっともない声を出すのはよしたまえ。ほら、君の鼻の頭なんか、さっきよりずっと血色がよくなったよ」
「もう太陽が沈みました。それに雪が降って来ました」
「雪がなんですか! あの元気な雀にすこし見習いたまえ」
「すみませんでした。でもネ、雀はあんな毛布《けっと》を着ているが、僕はこの通り半裸体なもんですから……」
「じゃ、毛布をあげますから、もう十五分|辛棒《しんぼう》していたまえ、いいわね」と、いい捨てたまま、扉《ドア》は閉ざされて、如原《もとのごとし》。
 二、花鉢とおでこの喰合せは一命に関わる。さて、「美しき島」事件で身心耗弱したコン吉が、懐かしい巴里の古巣に帰り着いたのちも、相も変らず、食糧の買い出しから風呂場の修繕、衣裳の塵払い、合唱のお相伴、玄関番《コンシェルジュ》との口論の調停、物もらいとの応待、蓄音器のゼンマイ巻き、小鳥に対する餌《え》の配給、通信事務の遂行、と、丁稚《でっち》輩下のごとく追い使われ、相勤めまする一日十余時間、休みもくれぬ苛酷《ひど》い賦役。タヌにあっては煮られたマカロニのごとく尻腰のないコン吉も、実は、心中無念でたまらない。するとここに十一月中旬の吉日《とあるひ》、かねて辱知の仕立屋の|お針《クウチュリエール》嬢、美術研究所の標本《モデエル》嬢、官文書保存所《アルキシイヴ》の羊皮紙《パルシュマン》氏、天文台区第二十七小区受持の警官|棍棒《クウルダン》氏を、わが共同の邸宅に招き一|夕《せき》盛大なる晩餐会を催すにつき、食堂、玄関、便所の嫌いなく満堂国花をもって埋むべし、という、例によって例のごとき、端倪《たんげい》すべからざるタヌが咄嗟《さっそく》の思い立ち。仰せ承ったコン吉がクウル・ド・ラ・レエヌの花市を駆けずり廻って買い集めた三十六個の菊花の大鉢、――これを一個|宛《ずつ》地階から六階まで担《かつ》ぎ上げているうち、その二十八個目を三階の階段の七段目まで持ち上げたところで不覚にも眼を廻し、すなわち花もろとも、墜落。己《おの》が身は巨大なる千本咲きの、花鉢の下敷きになって気絶して以来、いささか取りとめなき状態となり、にわかに尊大に構え、放歌高唱し、好んでタヌが愛蔵
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