における印象は、どうも飛《と》んでもないところへ漂着したものだというところに落着したのであった。
タヌとはタヌキの略語であって、一|口《くち》にいえば、その外観がなんとなく狸に似ているという、はなはだ平凡な連想から来ているのだが、この人物は、お天気で、喧嘩早くて、調子を外《はず》した歌を真面目な顔をして唄ったり、成年期に達している淑女の分際《ぶんざい》をも顧みず、寝ているコン吉の顔の上を跨《また》いで通ったり、本業とする天地活写の勉強においても、とかく、静物は動物となり、動物はまた要するに、何が何やらわからないという、はなはだ技術的に飛躍した天稟《てんぴん》[#ルビの「てんぴん」は底本では「てんびん」]天才を持ち、そのほか、百貨店《マガザン》の美しい売子の前で、しばしば故意にコン吉に恥辱を与えるとか、日常の買物は、人参《にんじん》の果てから下着の附け紐《ひも》に到るまで、男子としてはなはだ不本懐な労役にコン吉を従事せしめるとか、――コン吉にとってはとかく腹の立つことばかり。
想えば、快活な避暑地や、華々《はなばな》しい遊覧地も数多くあるものを、何を選《よ》り好んで、辺鄙《へんぴ》閑散、いたずらに悠長な、このような絶海の一孤島へ到着したかといえば、これまた、端倪《たんげい》すべからざるタヌの主張によったもので、その主張の根源は、ある一日、たまたまセエヌの河岸《かし》の古絵葉書屋で、この島の風景を発見したというのに他ならないこと。
追い追いはげしくなる陽射《ひざ》しのしたで、コン吉は、セント・エレーヌに流されたナポレオンの心情もかくやとばかり、悲憤の涙にくれるのであった。
三、災難は猪《しし》打ち銃《づつ》の二つ玉。と申しますが、全くのことでございます。いまも申しました通り、そのジュヌヴィヴ伯爵の夫人《おく》さまは、まことにお優しい方で、編物針をくださるときには毛糸を一束くださるとか、粉石鹸をくださるときには下着を一枚そえてくださるとか、財布をくだすったときには、五|法《フラン》の銀貨までそえてくだすったような方でございました。災難の起るときというものは仕様のないもので、その日もいつものように、お坊ちゃまを乳母車に乗せて、ビュット・モンマルトルのミミの菓子店へ出かけたのですが、わたくしがちょっとミミと話し込んでいる隙に、お坊ちゃまが、箱の中にあったミミのボンボンをつかみ出して、恋の辻占《つじうら》が刷ってある、あの名代の包紙のまま、一息に嚥《の》み込んでしまったんでございまス。さあ、お邸《やしき》へ飛んで帰って、それから医者を呼ぶやら、灌腸《かんちょう》をするやら、大騒ぎになりましたが、本当に神様も無慈悲な方でございまス。肝心の飴《あめ》の方は出て来ずに、出なくてもいい恋の辻占が、まるで街角の郵便函へ入れた手紙のように、生々《なまなま》と新しいままで下の口から出てまいったんですが、それがまた生憎《あいにく》と、一字ずつはっきりと手に取るように読めるんでございます。今でも覚えておりますが、その恋の辻占の文句は「旦那の接吻は兎の早駆《はやが》け」と申すんでございました。そばにいらした旦那さまは、急に髪の毛の中まで真赤になっておしまいになるし、わたくしとても、このうえどうしてのめのめと、お優しい夫人《おく》さまに毎日顔を合せることができましょう。それから流れ流れて、この島で八人の子供を産むまでの難儀の数々、筆にも紙にも尽せるものではございません。その連れ合いというのも、去年の春の日暮がた、鰯をとるといって沖へ出たまま、乗って行ったボートだけを帰してよこして、自分はいまだに報《たよ》り一つよこさないという呑気《のんき》な話、とうてい末始終|手頼《たより》になるような男ではございません。ところが、あまり不幸なわたくしの境涯に、多分神さまもお憐れみ下すったのでございましょう、このごろ、わたくしは胸の底が疼《うず》くような、なま温いような、擽《こそばゆ》いような、……小夜《さよ》ふけに寝床の中で耳を澄ましますと、わたくしの鼓動が優しくコトコトと鳴るのでございまス。と申しますのは、もうお察しのことと思いますが、何しろ気立てのいい床屋の若い衆なんでして、それが乗馬ズボンをはいて歩いている時なんてものは、いっそ脹《ふくら》っ脛《ぱぎ》にかみついてやりたくなるほど、いい様子なんでございまス。それが今度、海を渡ったキブロンの波止場の近くへ、親方から出店を出さしてもらいまして、一|升《ビドン》五|法《フラン》のオオ・ド・コロオニュだの、マルセーユできのコティの紛白粉《こなおしろい》だの、……これは内証の話なんですが、ま、そういった商売|上手《じょうず》なんでして、わたくしに、ぜひ一度店を見に来て、香水棚の下にカアテンを廻したり、鏡の下に花模様を入れ
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