ノンシャラン道中記
八人の小悪魔
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)油漬鰯《サルディン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西|仏蘭西《フランス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]
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一九二九年の夏、大西洋に面した西|仏蘭西《フランス》の沿岸にある離れ小島に、二人の東洋人がやって来た。質朴な島の住人が、フランス語で挨拶して見たら、相応な挨拶をフランス語で返すので、これは多分フランス人なんだろうと決め込んで、以来、多少の皮膚の色の曖昧さや、少し黒すぎる髪の毛の色には頓着しないふうであった。
さて、この二人の東洋人が、この夏を過すことに決めた島というのは、大西洋の中に置き忘れられた絶海の一孤島であって、そこには、風車小屋と、羊と、台ランプと、這い薔薇と、伊勢海老と、油漬鰯《サルディン》の工場と、発火信号の大砲と、「|海の聖母像《マリア・ド・ラ・メール》」と、灯台と、難破した FORTUNE 号の残骸と、――そのほか、風とか、入江とか、暗礁とか、それ相応のものの外、計らざりき、災難というものさえあったという次第。
そもそも、災難の濫觴《らんしょう》とも、起源ともいうべきその宿とは、先年、鰯をとるといって沖へ出たまま、一向|報《たよ》りをよこさぬという七歳を頭《かしら》に八人の子供を持つ、呑気《のんき》な漁師の妻君の家《うち》の二階の一室で、寄席《キャヴァレ》の口上役《コムメエル》のような、うっとりするほど派手な着物を着たこの家の若後家が、敷布と水瓶を持って、二人の前に罷《まか》り出た時の仁義によれば、この部屋は、かつて翰林院学士エピナック某《それがし》が、この島、すなわち「ベリイルランメール島の沿革および口碑。――或いは、土俗学《フォルクラアル》より見たるB島」という大著述を完成した由緒ある部屋であって、またこの窓からは、ありし日、サラ・ベルナアルが水浴をしているのが、手にとるように見えたこと。さて、今ははや、見る影もないこの衣裳戸棚ではあるが、これは父祖代々五代に亙《わた》って受け継いで来た長い歴史のために破損したのであって、ここに彫り込まれた三人目の漁夫は、大祖父によく似ていると皆《みんな》が評判すること。お二人がお寝みになるこの寝台では、お祖父《じい》さんもお祖母《ばあ》さんも、みな安らかに最後の息を引き取ったこと。もし牛乳がお入用ならば、毎朝|一立《アン・リットル》ずつ扉のそとへ置いとくつもりであること。これはぜひ一度ご試飲を願って、そのあとで、お断わりになるなり、お用いになるなりなさるのが至当であって、何故ならば、この島の牛どもが喰べる苜蓿《うまごやし》は塩気を含んでいるため、勢い牛乳も多少の塩味があるというので評判であること。乾物のお買物は、広場の角の家が一番安く、パン屋はその向いの青ペンキ塗の家、酒屋はその向いの「蟹の夢」屋という家に限ること。なぜなれば、この三軒は一|法《フラン》の買物ごとに福引券を一枚ずつくれるからで、福引券が貯りましたらば、ご出立の際、わたくしにいただかしてもらいたいこと。もし、この炉《ろ》で煮焚きをなさるならば、火をお焚きになる前に、この火掻きで、煙突を二三度ひっぱたいていただきたい、と申すわけは、一昨年からこの煙突の中に雀が二家族巣を作っているからであって、もしかして、雀に火傷《やけど》でもさせたら、さぞ寝覚めのお悪い事であろうと思って、ご注意までに申しあげること。海の方へ向いたこの窓はよく閉《し》まらないが、決して無理に閉めようとしてはならないこと。実は、これを余り手荒く扱うと、窓枠全体がそのままどなたかの頭の上に落ちて来る危険があるのであって、現に昨年の夏も、下宿の独逸《ドイツ》人がこの窓枠の下敷きになって、一夏中、片足を使えないほどの手ひどい目にあったこと……
折柄《おりから》、窓のそとは満潮《グラン・マレ》で、あぶくを載せた上潮の※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《うねり》が、くどくどと押し返し、巻きかえし、いつ果てるとも見えない有様であった。
二、朝日が昇れば川柳は緑に染まる。タヌの水浴着《マイヨオ》を持たされたコン吉が、漠然たる眼《まなこ》をしばたたきながら、入江伝いに来て見れば、鰯の腸《はらわた》の匂いを含んだ、やや栄養の良すぎる朝風が糸杉の枝を鳴らし、蕭条《しょうじょう》たる漁村に相応《ふさわ》しからぬ優雅な音をたてているのだが、コン吉はそれほどまでに深く自然の美観を鑑賞する教養がないためか、いたずらに、臭い、臭いといって顰蹙《ひんしゅく》し、この島
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