ているものなんでございます。さて、わたくしの愛する男が、撞球《たまつき》の玉のように、羅紗《らしゃ》の台の上をころがって歩いているとしますならば、彼の愛する妻たるわたくしが、どうして同じところにとどまっていられるものでございましょう。
 わたくしはお二人様の友情を裏切りましたことを、どれほどか悲しく思っていることでしょう。しかし、わたくしをかり立てて、ここに立ち到らしめたものは、それは恋でございます。ああ、恋よ、恋よ! 恋するものには何事も許されるのだ! なぜなれば、恋とは人類愛の結晶でありまして、聖書にも「愛するものは福《さいわい》なり」と書かれてあるではございませんか。お二人のお手もとに残した八人の子供は、どうぞ行すえ長くお世話くださるようお願いいたします。念のためにここでわたくしの希望を申しますと、
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長男のジャック ――巴里大学の法科に入学させてくだされたく、行すえは弁護士。
二女のジャックリイヌ ――伯爵の継嗣《あととり》にお嫁《かたづ》け下さい。
三男のアンリ ――海軍士官学校へ。
四女のイレーヌ ――オペラの技芸学校へ。
五男のポオル ――マチスとか申す画描きのところに弟子入りさせて下さい。
六女のマリイ ――この子に学問はいりません。
七男のルイ ――安南のP・M・D木綿会社へ見習いにやって下さい。
八女のソフィ ――実のところ、わたくしも、この子の処置についてはまだ考えてはおりません。しかし、大実業家、又は相当の家柄から養女に望まれましたらば、そこへお遣《つかわ》し下さる様。
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[#地から1字上げ]信実なるA・ジェルメエヌ。
 八、尻尾に火が付けば亀でさえ跳ねる。事《こと》身命《しんめい》に関する限り、迂濶《うかつ》なるコン吉も迂濶のままではいられない。朝は早くから肉や野菜の買い出しにかかり、沖から漁舟が帰るを待ちかねて魚を撰みにゆく、それが終れば、タヌと二人で真白になってパン粉を練り、伸して型で抜き、杏《あんず》の罐を開き、鶏《とり》の毛をむしり、麺麭《パン》屋へ駈けつけて、鶏の死骸が無事にパン焼竈《やきかまど》に納ったのを見届けて駈けもどり、玉菜《ぎょくさい》をゆで、菠薐草《ほうれんそう》をすりつぶし、馬鈴薯《じゃがいも》を揚げ、肉に衣《ころも》をつけ、その合間には、子供らににッと笑って見せ、お襁褓《むつ》を洗い、釦《ボタン》を付け、尿瓶を掃除し、絨氈《じゅうたん》をたたき、――家中はおろか、海の上までも、まるで阿呆鳥《あほうどり》のように飛び廻るのであった。
 この間にタヌは、彼女の創案になる「オルガン遊び」で、悪魔どものお機嫌をうかがうため、例の、調子をはずしたキンキラ声で、近隣の鶏を驚かしているのだ。
 そもそも、この「オルガン遊び」というのは、これだけが悪魔どもに受入れられ、ご満足をうる唯一の遊戯であって、オルガンとは年の順に並んだ八人の子供がすなわちそれ。鍵盤は取りも直さず彼等の鼻のあたまなのだ。一番|年嵩《としかさ》のジャックは do、ちょうど八番目のチビが si、四番目と五番目は年子《としご》なので、五番目のポオルは fa# だというわけ。そこで演奏の方法は、タヌがそれらの鍵盤を指で押すのであって、押しさえすれば、そこから、ややそれ相応の音《おん》と歌詞とが出て来るという仕組み。
 この不可解な楽器は、十日に余る涙ぐましいタヌの努力によって成ったもので、この八人の無政府主義者も、この遊戯に関する限り、ひたすら恭順の意を表し、誠意を披瀝したのは、誠にもって不思議とも面妖ともいうべき次第であった。この試演に撰ばれた曲というのは、次のような句で始まるのである。

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ピエロオさん
ペンを貸しておくれ
月の光で
一|筆《ふで》書くんだ……
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 しかし、この楽器はまだ不完全であったばかりでなく mi の音が演奏中に居睡りをしたり、fa が pipi をするために突然紛失したり、とかく無事に演奏を終えた事がない。
 ああ、金言にもあるごとく、坐して喰えば、山のごとき紙幣の束も、いつかは零《ぜろ》となるであろう。まして、多寡の知れた共同の財布が、どうしていつまでも、日毎夜毎《ひごとよごと》のこの大饗宴を持ちこたえることができるであろう。
 さて、旬日ののち、嚢中《のうちゅう》わずかに五十|法《フラン》を余すとき、悩みに満ちた浅い眠りを続けているコン吉を遽然《きょぜん》と揺り起すものあり。目覚めて見れば、これはまたにわかに活況を呈し、頬の色さえ橙色《だいだいいろ》となったタヌが立っていて、次のような計画をコン吉にもらすのであった。
 コン吉よ、これがもし名案でないというな
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