墜落するもあり、インキを振りまくもの、窓の外へ枕を投げ出すもの、鞄の中を引っかき廻す、眼鏡を踏みつぶす、果ては羽根布団の腹を裁《た》ち割って、その臓腑を天井に向って投げつければ、寝室はたちまち一面の銀世界。さすがのタヌも、いまは早や天国の夢も醒《さ》め果て、衣裳戸棚の中に避難して、戦後のソンムの村落にも劣らぬ、惨憺《さんたん》たる光景を眺め渡しながら、ただただ溜息をつくばかり。
 さればといって、この悪魔の弟子どもを戸外《こがい》に放つならば、とたんに四方八方へかけ出し、これをかき集める苦労というものは、ほとんど筆紙に尽せぬほど。
 しかしながら、これらはまだ、二人の苦役としてはなま優しい部類であって、最も始末に終えないのは、この悪魔どもの餌《えさ》に対する偏癖であった。
 その朝、コン吉がこの島中を跳《は》ね廻って買い集めた肉や菓子や、あるいは野菜や乾物や、――これらはタヌのはなはだ飛躍した手腕によって、お伽噺《とぎばなし》風の羮《スウプ》となり、童謡風の副皿《アントレ》となったが、八匹の悪魔は、このスウプを瞥見《べっけん》するや否や、
「これは、鳥貝《ムウル》のスウプでない!」と、どなり出した。まず、長男のジャックがどなり、続いて二番目のジャックリイヌが「鳥貝のスウプでない」と金切り声をあげ、三番目がわめき、一番チビの半悪魔までが、「鳥貝のスウプでない!」と拒絶する始末。コン吉とタヌは、王様にしかられた大膳職のように懼れ畏んでスウプの皿を引きさげ、今度は青豌豆《あおえんどう》のそえ物を付けた、犢《こうし》の炙肉《やきにく》の皿を差し出したが、これもまた、
「これは、車前草《おんばこ》の擂菜《ピュウレ》でない!」という合唱的叫喚《シュプレッヒ・コオル》によって撃退された。いろいろとききただして見たところ、この二つがこの島の常食だということが始めて判明したが、この頑迷|固陋《ころう》な小仏蘭西人達は、他《た》のすべての大仏蘭西人達と同じように、容易に日常の主義を変えないことに、はげしい衿持《きんじ》を[#「衿持《きんじ》を」はママ]持っているものと見え、コン吉とタヌが口を酸《すっぱ》くし、甘くし、木琴のように舌を鳴らして喰べて見せても、一向に動ずる気色がないばかりか、最後に差し出したヴァニイル入りのクレエムなどは、皿のまま放りあげられ、いたずらに天井の壁に、黄色い花模様を描くにとどまったような次第。
 コン吉がこの朝暁《あさあけ》に、風邪をひいた縞馬《しまうま》のように、しきりに嚔《くさめ》をしながら、気の早い海水浴を決死の覚悟で企てようとするゆえんは、この島の鳥貝なるものは、一町ほど離れた沖合の小島にのみ群生しているからであって、されば、朝ごと、朝ごと、コン吉は干潮の時間を見計らい、身を切るような冷たい海を泳ぎ渡り、それを採取に出かけるのであった。
 一方タヌはといえば、これまた擂菜《ピュウレ》にするため谷を二つ越え、断崖の危ない桟橋《さんばし》を渡って、はるかなる島蔭の灯台の廻りに生えている車前草《おんばこ》を採集に出掛けるのであった。
 二人は、海へ行く道と山へ行く道の分岐点《ビフュウル》になる乾物屋の横丁《よこちょう》で、涙ぐましき握手をかわし、一人は海へ、一人は山へ、別れ別れにつらい課役に従うため、そこで訣別するのであった。思いようによれば、これはさながら、千寿姫と安寿丸の悲しい物語にも似ているようで、さすがに猛きコン吉も、その心底、いささか愁然たるものあり。

 さて、この悲しい朝夕が、いつまで続くことやら、床屋の香水棚へカアテンを張りに行ったジェルメエヌ後家からは、もう十日にもなるが一向に音便《おとさた》なく、小手《こて》をかざして巴里の方角を眺めやれば、うす薔薇色の雲がたな引き、いかにも快活な空模様であるに引きかえ、この島には雨雲低く垂れ、ねぼけ顔する灯台の回旋光が、雲の下腹を撫でては、空《むな》しく高い虚空へ散光するのであった。
 七、ドミノ遊びは白と黒との浮世の裏表。
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尊敬するお二人様。恋の手綱《たづな》と荒馬の鬣《たてがみ》はつかみ難いと申しますが、わたくしのこの恋心も、たとえばどのように上手《じょうず》な運転手が制動機《フェレン》を掛けたとて、きっと停《と》めることはできないと思うのでございます。実のところを申しあげますと、わたくしの愛する男は、床屋の弟子でも、波止場の力持ちでもございません。それはアントゴメリと申す曲馬団のチャリネなのでございます。ご承知の通り、このような小さな曲馬団などというものは、村々の市の日、または葡萄祭や、麦の刈入れ、時には村長のお嬢さんの結婚式だとか、村道の開通式だとか、わけのわからぬ暦《こよみ》に従って、年がら年中、地図にもないような村々を巡って歩い
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