夫は、大祖父によく似ていると皆《みんな》が評判すること。お二人がお寝みになるこの寝台では、お祖父《じい》さんもお祖母《ばあ》さんも、みな安らかに最後の息を引き取ったこと。もし牛乳がお入用ならば、毎朝|一立《アン・リットル》ずつ扉のそとへ置いとくつもりであること。これはぜひ一度ご試飲を願って、そのあとで、お断わりになるなり、お用いになるなりなさるのが至当であって、何故ならば、この島の牛どもが喰べる苜蓿《うまごやし》は塩気を含んでいるため、勢い牛乳も多少の塩味があるというので評判であること。乾物のお買物は、広場の角の家が一番安く、パン屋はその向いの青ペンキ塗の家、酒屋はその向いの「蟹の夢」屋という家に限ること。なぜなれば、この三軒は一|法《フラン》の買物ごとに福引券を一枚ずつくれるからで、福引券が貯りましたらば、ご出立の際、わたくしにいただかしてもらいたいこと。もし、この炉《ろ》で煮焚きをなさるならば、火をお焚きになる前に、この火掻きで、煙突を二三度ひっぱたいていただきたい、と申すわけは、一昨年からこの煙突の中に雀が二家族巣を作っているからであって、もしかして、雀に火傷《やけど》でもさせたら、さぞ寝覚めのお悪い事であろうと思って、ご注意までに申しあげること。海の方へ向いたこの窓はよく閉《し》まらないが、決して無理に閉めようとしてはならないこと。実は、これを余り手荒く扱うと、窓枠全体がそのままどなたかの頭の上に落ちて来る危険があるのであって、現に昨年の夏も、下宿の独逸《ドイツ》人がこの窓枠の下敷きになって、一夏中、片足を使えないほどの手ひどい目にあったこと……
 折柄《おりから》、窓のそとは満潮《グラン・マレ》で、あぶくを載せた上潮の※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《うねり》が、くどくどと押し返し、巻きかえし、いつ果てるとも見えない有様であった。
 二、朝日が昇れば川柳は緑に染まる。タヌの水浴着《マイヨオ》を持たされたコン吉が、漠然たる眼《まなこ》をしばたたきながら、入江伝いに来て見れば、鰯の腸《はらわた》の匂いを含んだ、やや栄養の良すぎる朝風が糸杉の枝を鳴らし、蕭条《しょうじょう》たる漁村に相応《ふさわ》しからぬ優雅な音をたてているのだが、コン吉はそれほどまでに深く自然の美観を鑑賞する教養がないためか、いたずらに、臭い、臭いといって顰蹙《ひんしゅく》し、この島
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