ヌウズ――でも、ここに、あなたに宛《あ》てた書留が一通。
[#ここで字下げ終わり]
「ノン」
「ははあ。では、前芸はも早これまで。これよりはご馳走《ちそう》の食べっくら。……一番沢山食べたひとには、王様からご褒賞《ほうび》が出るという話」「ノン」
「さあ、さあ、あちらには鵞鳥《がちょう》の焼肉羮《サルミ》とモカのクレエム。小豚に花玉菜、林檎《りんご》の砂糖煮《マルメラアド》。それから、いろいろ……」
「ノン」
「じゃ、どうすればお気にいるのですか? いっそ、あたし、あっちへ行っちゃいましょうか?」
「ウイ! ウイ!」
 六、八月六日満潮午後三時干潮午前同刻。細い毛脛《けずね》を風になびかせ、だんだら模様の古風な水浴着《マイヨオ》を一着におよんだコン吉は、蜘蛛《くも》の子のような小さい紅蟹《べにがに》が這い廻る岩の上へ、腰を掛けたり立ち上ったり、まだ明け切らぬ海上を照らす浮き灯台の点滅光をわびしげに眺めながら、かねて貧血症の唇を紫色にし、毛を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られたクリスマスの七面鳥のように、全身を鳥肌立てながら、片足を水に入れては躊躇し、また片足を水につけては首をひねり、何やらすこぶる煩悶の体《てい》に見えるのは、実に次のような仔細《しさい》のある事であった。
 ジェルメェヌ後家の約束に違《たが》わず、この八人の悪魔の突撃隊は、毎朝六時に眼を覚まし、真紅になってわめき立て、手鍋《キャスロオル》をたたき、鬣狗《ジャカアル》のように吼《ほ》え、歯ぎしりし、当歳の赤ん坊までが、「フランス万歳!」と、廻らぬ舌で叫びながら、コン吉とタヌが階段の上《あが》り口に構築したがらくた道具の鹿砦《バリカアド》を乗り越え、押しもみひしめいて階段を押し昇って来る有様は、巴里市民諸君のヴェルサイユ宮殿乱入の件《くだり》もかくやと思われて、ルイ十六世ならぬコン吉も、さながら身の毛もよだつばかり、ついには、蒲団の洞穴の奥に身をすくめ、魂も身にそわぬ二人を引き出し、馬乗りになって眼玉の中へ指を突っ込む。腹の上で筋斗《とんぼ》を切る、鳩尾《みぞおち》を蹴っ飛ばす、寝巻の裾《すそ》へ雉猫《きじねこ》を押し込むという乱暴|狼籍《ろうぜき》[#「狼籍《ろうぜき》」はママ]。別の一隊はと見てあれば、六絃琴《ギタアル》を踏み台にして煖炉の棚に這いあがるもあり、掛時計と一緒に
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