キャラコさん
新しき出発
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)沼間《ぬま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全部|送達《エンヴォイ》

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(例)※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]
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     一
 麻布竜土町の沼間《ぬま》家の広い客間に、その夜、大勢のひとが集まっていた。温室の中のカトレヤの花のような、眼の覚めるような若いお嬢さんが六人ばかり、部屋の隅の天鵞絨《びろうど》の長椅子に目白押しになって、賑やかな笑い声をあげている。
 そこへ、つい今しがた来たばかりの一人が無理に割り込もうとしたので、押しかえすやら、こねかえすやら、それこそ花園に嵐が吹き通ったような騒ぎになる。
 こちらの土壇《テラッス》に向った大きな硝子扉《ケースメント》のそばには、気むずかしい顔をした学者らしい四人の青年が、途方に暮れたようすで椅子に掛けている。どれもこれも黒っぽい地味な服を着て、もっそりとした恰好で坐っているので、ちょうど、黒い大きい田鶴《たづる》でもそこに棲《とま》っているように見える。
 部屋の右手の凹壁《アルコーヴ》になった大きな書棚の前には、ひと眼で混血児だとわかる美しい兄弟が、小さな円卓をはさんで、たいへん優雅なようすで向き合っている。
 太い薪《まき》が威勢のいい焔《ほのお》をあげている壁煖炉《シュミネ》の前には、肩幅の広い、軍人のような立派な体格の中年の紳士が、しずかに煙草の煙りをふきあげてい、その隣りに、半ズボンの裾から、仔《こ》鹿のようなスラリとした脛《すね》をむきだした九つばかりの少年が、紳士の胸へ小さな身体をもたせかけるようにして、夢中になって何かしゃべっている。
 入口に近い、南洋杉《アロオカリヤ》の鉢植えのそばの椅子には、恰幅のいい切下げ髪のご隠居さまと、ゴツゴツした手織り木綿の着物に、時代のついた斜子《ななこ》の黒紋付きの羽織りを着た、能面の翁《おきな》のような雅致《がち》のある顔つきの老人が、おだやかな口調でボツボツと話し合っている。
 風もないのに、土壇《テラッス》で何かゴトゴトいう物音がきこえる。そのうちに、そこの細長いヴェニス窓が向うから押されて、馬がヌーッと長い顔を差し入れた……要するに、この広い大きな客間には、この十一ヵ月の間にキャラコさんが新しく懇意になった二十人あまりのひとたちと一匹の馬、……約一年ほどの間に、キャラコさんの周囲《まわり》でさまざまな人生の起伏を見せたひとたちが、ただ二人だけを除いて、あとは一人残らず全部ここにそろっている。
 箱根の蘆《あし》ノ湖畔で木笛《フリュート》を吹いていた佐伯氏は、まだこんな席へ出て来れない事情にあるので、ここにそのひとの姿はない。佐伯氏の妹の、あの美しい茜《あかね》さんの顔もまだ見えないが、どんなことがあってもおうかがいするという返事は二日前に届いているから、もう、間もなくやってくるだろう。
 キャラコさんは、とりわけ、今晩は愉快そうに見える。
 胸のゆるやかな、ワイン・カラーの薄薔薇《うすばら》色のジョーゼットの服をすんなりと着て、のどかな顔で客間の中を歩き廻りながら、あちらこちらへ愛想をふりまいている。
 イヴォンヌさんが、ノオ・カラーの服の胸に蘭の花をくっつけて、レエヌさんのところと、大騒ぎをしている長椅子の鮎子さん達の組の間を眼まぐるしく行ったり来たりしている。
 秋作氏のそばには、ついこの夏、結婚したばかりの従姉《いとこ》の槇子《まきこ》が淑《しと》やかに寄り添い、そのとなりに、長六閣下の白い毬栗頭《どんぐりあたま》が見えている。
 沼間《ぬま》夫人と森川夫人と従妹《いとこ》の麻耶子《まやこ》は、今夜の接待係りなので壁煖炉《シュミネ》のところにいるボクさんや久世《くぜ》氏、ご母堂と話をしている苗木売りのお爺さん、丹沢山《たんざわやま》の、あの四人の科学者たちに、さまざまなおもてなしをしている。
 馬のほうは、もともと気のいいたちだから、こうして、みなの愉快そうなようすを眺めているだけで、充分、満足なのである。
 この月の中ごろ、キャラコさんは、山本譲治《ジョージ・ヤマ》の法定代理人というひとの訪問を受けた。
 かくべつ、面倒な話はすこしもなく、紐育《ニューヨーク》と巴里《パリー》と倫敦《ロンドン》と羅馬《ローマ》の銀行に別々に預けられてあった山本氏の財産が、外国の代理人の手でひとまとめにされ、正金銀行に全部|送達《エンヴォイ》されて来たことと、財産相続の届け出、相続税の納付、その他一切の法律上の手続きが、ちょうど昨日《きのう》で完了したことを報告し、
「これで、確実に、受遺《じゅい》の効力が発生したわけで、相続税金及び銀行手数料その他を支払った残余、四千二十五万六千四百六円七十二銭は、今日から、ご自由の用途においてお使いなさってよろしいのです。……この紙挾みのほうは、支払いの明細書と受領証、こちらの角封筒の中には、預金帳と、有価証券及び公債《こうさい》証書の目録が入っております」
 そういって、弁護士が帰って行った。
 たった十分間ほどの会見で、キャラコさんは、約四千万円の金持になってしまった。
 弁護士が帰って行ってから、やや長い間、キャラコさんは玄関脇の六畳で、ムッとしたような顔で、ひとりで坐っていた。
 何か、えらいことが始まったような気がするが何がどうえらいのか、その意味が、はっきりと頭に訴えて来ない。
 卓《テーブル》の上に置かれた、物々しい紙挾みと嵩張《かさば》った白い大きな角封筒を、珍らしい生物でも眺めるような眼つきで、眼の隅からジロジロと見物していたが、そのうちに、なんともいえない重苦しい不安と、得体の知れない憂愁の情に襲われはじめた。
 紙挾みのほうには、『常松《つねまつ》法律事務所』と固苦しい大きな活字で名を入れてあり、正金銀行の角封筒には、警察の徽章とよく似た金色《きんいろ》の紋章が鮮やかに刷り出されてある。
 こうして、この二つが並んだところを眺めていると、なんとなく『罪』とか、『悪』とか、『法文』とか、『刑罰』とか、そんなような、あまりゾッとしない忌わしい文字が、次々に連想の中へ浮びあがってくる。
 波瀾のない、平和な自分の生活の中へ、ぼんやりとした暗い影を背負った不吉なものが、無理やり割り込んで来たように思われてならない。形容のつかない色々繁雑なことや、手に負えないめんどうなことが、今日から数《かず》限りとなくひき起こって来るような気がする。
 これからは、とても、今までのように呑気にしているわけにはゆくまい。
 望んでもいないのに、無理やり大人にされてしまったような、浮世の荒波《あらなみ》の中へ急に押し出されたような、知らない他国で日が暮れかかったような、何とも頼りない、心細い気がする。じっさい、この厳《いか》めしい活字や金色《こんじき》の紋章は、今までのじぶんの生活とは、いかにも縁の遠いもので、どうしても心がなじまないのである。
 キャラコさんは、おずおずと手を伸ばして、指の先で、そっと角封筒に触わってみる。固い、ひどく四角張ったものを指の先に感じて、びっくりして、周章《あわて》て手を引っ込ませた。
「この中に、四千万円のお金が入ってるなんて、なんだか、本当のこととは思えないわ。……四千万円! どう考えても、すこし多すぎるようね」
 キャラコさんは、紙挾みと角封筒を取り上げると、それを手に持って、長六閣下の居間のほうへ歩いて行った。
 庭の奥の矢場のほうで、鋭い弓弦《ゆづる》の音が聞える。
 キャラコさんは、縁から庭下駄をはいて、庭づたいに、矢場のほうへ入って行った。
 長六閣下が、上背のある、古武士のようなきりっとした背《そびら》を反《そ》らせて、しずかに、弓を引き絞っている。まっ白い毯栗《いがぐり》の顱頂《ろちょう》のうえに、よく晴れた秋の朝の光が、斜めに落ちかかっている。
 弓も矢筈《やはず》も、水のようにしずまりかえって、微動さえしない。
 ヒュン、と澄んだ弓弦《ゆづる》の音がし、弓から離れた矢は、矢羽根をキラキラ光らせながら、糸を引いたように真っ直ぐに※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》のほうへ飛んでゆく。的の真ん中に矢が突き立って、ブルンと矢筈を震わせる。
 キャラコさんは、長六閣下のほうへ近づいて行く。
「お父さん、あたし、きょう、お金をいただきましたの。この中に四千二十五万円ばかり入っているんです」
 長六閣下が弓を持ったままで、うん、といいながら、振り返る。
「そうか」
 キャラコさんは、情けない声を、だす。
「あたし、困ってしまいましたわ」
 長六閣下が、おだやかに、うなずく。
「それは、困るだろう」
「あたし、かくべつこんなお金、欲しくないのよ。……それに、あまり多すぎるようですわ」
「それは、そうだ。……しかし、いずれこうなることはわかっていたのだから、覚悟はあったはずだ。なんで、そんなに周章《うろた》える」
「でも、あまりとつぜんなので、咄嗟《とっさ》にどう考えていいかわかりません。……あたしには、こんなたいへんなお金、とても、うまく使えそうにはありませんわ」
「失敗《しくじ》ってみるのもよかろう。初めからうまくはゆくまい」
「ねえ、お父さま、ともかく、これをどうすればいいのでしょう」
「そんなことは、自分で考えなさい」
「教えていただけません」
「教えてやってもいい。しかし、たいして役にも立つまい?」
「でも、どうぞ」
「自分で使おうと思うから迷いが起きる。他人《ひと》に使われると思いなさい。だいたい、その辺へ精神をすえて置けば、たいして間違った使い方もせずにすむだろう」
 長六閣下は、※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》のほうへ向きなおって、靫《ゆぎ》から矢を抜き出す。
 キャラコさんは、スゴスゴとじぶんの部屋へ戻って来た。
 一日おいて、その翌朝《あくるあさ》、キャラコさんは、威勢よく長六閣下の部屋へ入って行った。
「お父さま、あたし、いま中支《ちゅうし》でやっている同恵会の仕事を見学に行きたいと思うんですけど……」
 長六閣下は、書見台《しょけんだい》から顔をふり上げて、
「よかろう」
 と、それだけ、いった。
 名目は薬局員ということにし、同恵会の仕事の全部にわたって、できるだけ実際にたずさわらしてもらうことに了解がついた。
 出発は、一月一日の夕方ということに決まった。

     二
 今夜の会合は、キャラコさんの新しい出発へのお祝いと送別を兼ねた晩餐会だった。
 キャラコさんは、この送別会を機会に、この十一ヵ月の間に触れ合った全部のひとたちを招いて、何かひと言挨拶したいと思った。さまざまな起伏のすえ、幸福になったひとたちの顔々《かおがお》を、この新しい出発を前に、もう一度つくづく眺めておきたかった。
 部屋の隅の路易《ルイ》朝ふうの彫刻《ほり》のある大きな箱時計が六時を打つ。
 どうしたのか、茜さんは、やって来ない。
 それから、また十五分。晩餐は正確に六時に始めることに書いてやってあったのだが、十五分過ぎてもまだやって来ない。
 キャラコさんは、落ち着かない思いで、客間の入口のほうばかり眺めていた。
 玉川の奥からやって来るのでは、電車などの都合で、このくらい遅れることはあるかも知れない。茜さんには、五月の末ごろ、一度元気な顔を見たきり、その後、かけ違って会っていない。
 だから、いま、どんな事情になっているのか、まるっ切り察しようがなかった。
 とうとう、半になる。それでも、茜さんは、やって来ない。
 麻耶子が、キャラコさんのそばへやって来て、ひくい声で、
「あまり、遅くなりはしない? 始めながら待っていてはどうかしら。……もっとも、これ、ボクばかりの意見じゃないんだよ。鮎子さんたちの組が、みなお腹《なか》をすか
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