してる。……早く始めてちょうだいって」
 沼間夫人も、やって来る。
「ねえ、キャラコさん、もう、始めましょう。あまりお待たせしては、悪くてよ」
 キャラコさんが、しょんぼりした声を、だす。
「我ままなようですけど、あたし、みなの顔が、ひとり残らずそろってから、始めたいの。どうぞ、もう五分だけ待ってちょうだい。それでも、いらっしゃらなかったら、始めていただきますわ……。ねえ、もう、五分だけ」
 キャラコさんは、客間から駆け出して、玄関の車寄せのところまで行った。
「茜さん、あなたをひとりはずして始めるというわけにはゆかないのよ。どうぞ、早くやって来て、ちょうだい」
 円形植込《コルベール》の両側をめぐって、門のほうへ混凝土《コンクリート》の白い道がつづき、その上に秋の月が、蒼白い光を投げている。
 キャラコさんは、ポーチの柱にもたれて、茜さんを待っていた。五分たったが、白い道の上に人影は射《さ》さなかった。
 キャラコさんは、しおしおと客間へ戻って来ると、つぶやくように沼間夫人に、いった。
「どうぞ、始めて、ちょうだい」
 賑《にぎ》やかな晩餐が始まった。
 長い食卓の端から見渡すと、両側にさまざまなひとの顔が見える。
 レエヌさんと保羅《ぽうる》さん。……碧い池の水にあぶなく呑まれかかった梓《あずさ》さん。……見違えるように元気になったボクさんと、一分の間もボクさんから眼を離さないように、うっとりとその顔ばかり眺めている久世《くぜ》氏。その向い側には、相変らず咳ばかりしている黒江氏とその一組。……つい最近、主役で成功した緋娑子《ひさこ》さん。それから、例のやんちゃな五人のお嬢さん。……どの顔を見ても、いちいち深い感慨を、キャラコさんの心に呼び起こす。
(……あの時は、あんなことがあったっけ。……辛いこともあったし、嬉しい思いをしたこともあった……)
 それにしても、ここに茜さんの顔の見えないのは、何ともいえない物足らない思いがする。やるせなくもある。茜さんの口振りでは、あまり幸福《しあわせ》にはいっていないらしいようすだったので、その思いが、いっそう深いのである。
 それはそれとして、みなは、たいへん愉快そうだった。ここにいるほどのひとは、少なくとも、みなキャラコさんを好いていて、これからのキャラコさんの新しい生活を、心から祝福している。
 みな、同じ思いなので、一座の空気は、しっくりとして、たいへんなごやかなものになる。
 長六閣下が立って、簡潔な言葉で挨拶した。
「剛子《つよこ》のこれからのことは、ひとえに、剛子の精神の上に懸《かか》っているのです。この通り、まだ未熟な者ですから、海のものとも山のものともわからんのにかかわらず、皆様、よくお出で下さって、このような盛んな御声援を賜わったことは、まことに有難いことでした」
 イヴォンヌさんに肘で突かれて、キャラコさんが、すこし上気したような顔で、立ち上る。
「わたくしは、改まって申し上げることなどは、何もございません。皆様だって、わたくしが鯱固張《しゃちほこば》った演説なんかするのを、あまりお聞きにはなりたくはないでしょうからね。……わたくし自身についていえば、じぶんの力をどの辺まで信用していいのか、全くわかっていないのですから、しっかりやって来るなんてことも、威張って申し上げられませんの。もう、これくらいにしておきますわ」
 食事が始まった。
 食事の合間々々に、みなが簡単な自己紹介をし、じぶんとキャラコさんとの間にどんなことがあったか、要領よく披露した。
 馬のほうは、ただ、ひひんといなないただけであった。これが、いちばん喝采を博した。
 小間使いが、手に速達を持って入って来て、キャラコさんに、そっと手渡しした。
 茜さんからの速達だった。

[#ここから1字下げ]
 キャラコさん。
 私だけのことなら、たとえ死にかけていても、必ず、おうかがいするつもりでした。あなたの立派な門出をお祝いするために。それから、いいつくせないお礼の言葉を、お別れする前に、もう一度、それとなく申し述べるために。
 でも、今の私は、どうしても身体を動かすわけにはまいりません。こうまで早く、こんなことになって来ようとは、夢にも思っていなかったのです。私は、このひっそりした家にひとりでいて、絶え間なく襲って来るひどい苦痛の中から、いっしんにあなたのことをかんがえています。私の肉体はここにいながら、せめて心だけでも、そこへ行けるようにと思って。……私の席に私はおりませんでしょうが、心だけはたしかに、そこの椅子の上にいるはずです。あまり長くペンを持っているわけにはゆきませんから、もうこの辺で。あなたの、おしあわせを祈りつつ。
[#ここで字下げ終わり]

 消印《けしいん》の時間を見ると、きょう朝のうちに出した速達だった。
(茜さんが、なにか大変なことになりかけている……)
 ここにいるひとたちが、みな幸福《しあわせ》そうな顔をしているのに、茜さんだけが、ひとりでなにか苦痛に喘《あえ》いでいる。この晩餐会が、みなのしあわせな顔を見るための会合だったとすれば、それを知りつつ、茜さんだけを放っておけるわけのものではなかった。
 キャラコさんは、ちょっと、といって、立ちあがった。速達を読み上げてから、いま感じているじぶんの気持を、率直に説明した。
「……お招きしておきながら、ほんとうに我ままな仕方ですけど、どうぞ、わたくしを茜さんのそばへ、やって、ちょうだい」
 食卓の向う端で、あの無口な山下氏が、まっ先に、口を切った。
「それは、そうあるのが、当然です。どうか、すぐ、行ってあげて下さい」
 もちろん、誰も異存を唱えるものはなかった。

     三
 小田急の喜多見で降りて、宇奈根町の浄水場を目当てに行くということだったが、その辺は、広い田圃《たんぼ》や雑草の原ばかりで、家らしいものもなく、どこでたずね合わすすべもなかった。あちらこちらと散々迷い歩いたすえ、表戸を閉《し》めかけている荒物煙草屋へ飛び込んで、ようやく、そこへ行く道筋をきくことができた。
 茜さんがいるという百姓家に行き着いた時は、もう八時を過ぎていた。右手は玉川堤で、水の涸《か》れたひろい河原の向うに、川が銀色に光っていた。
 その百姓家は荒畑をひかえた、広い草原の中にポツンと一軒だけ建っていた。藁《わら》屋根がくずれ落ち、立ち腐れになったようなひどい破屋《あばらや》だった。柱だけになった門を入って行くと、雨戸の隙間から、チラリと灯影《ほかげ》が見える。涙が出るほど嬉しかった。
 キャラコさんは、縁側の雨戸のそばまで一|足《そく》とびに飛んで行って、戸外《そと》から声を掛けた。
「ごめんください。……こんばんは」
 ちょっと間《ま》をおいて、内部から、弱々しい返事があった。
「お産婆さんですか?……かまわず、そこを開けて入ってください」
 キャラコさんが、雨戸をガタピシさせていると、また内部《なか》から、細い弱々しい、茜さんのつぶやくような声が聞えて来た。
「お産婆さん。よく、早く来て下さいましたわね。わたし、死にそうでしたの、心細くて」
(誰か、この家で、赤ちゃんを生みかかっているんだわ。たいへんだわね。こんな辺鄙《へんぴ》なところで)
 叢《くさむら》の中に靴を脱ぎすてると、キャラコさんは、かまわず内部へ入って行った。
 これは、と驚くような、ひどい荒畳の上へ、薄っぺらな蒲団を敷いて、茜さんが寒々と寝ていた。煤だらけのむき出しの梁《はり》から、十|燭《しょく》ほどの薄暗い電灯が吊り下げられ、ぼんやりと部屋の中を照している。
 茜さんの枕元には、瀬戸のはげた古洗面器や、薬瓶のようなものが、ごたごたと木盆の上に置かれてあった。
 キャラコさんは、あまり思い掛けないことで、呆気にとられ、閾《しきい》際に立ちすくんでしまった。咄嗟《とっさ》に、何と声を掛けたらいいのか、わからなかった。
 茜さんは、油|染《じ》んだ枕の上で、向うむきになったまま、
「お入りになったら、どうか、そこを閉めてちょうだい。……風が入って来ますから。こうしていても、足から凍えて来るようなの。なんて、寒いんでしょう」
 キャラコさんは、胸を衝《つ》かれるような思いで、そのほうへつき進んで、畳に膝をつけ、
「茜さん、あたしよ。……剛子《つよこ》よ」
 枕の上で、ぐるりと茜さんの頭が廻った。茜さんの顔に、サッと血の色が差し、すぐまた真っ蒼になった。幻影《まぼろし》でも見ているひとのような自信のない眼付きで、穴のあかんばかりにキャラコさんの顔をみつめていたが、とつぜん、ほとばしるような声で、
「キャラコさん!……あなた、どうしてこんなところへ!」
 キャラコさんは、半ば夢中で、膝で茜さんの蒲団のうえへ乗りあがって行った。
「茜さん、あなた、たいへんだったのね。どうしてあたしに教えてくれなかったの。それは、ひどくてよ」
 茜さんは、キャラコさんの声がまるっきり、耳に届かなかったように、
「キャラコさん、あなたどうして、こんなところへいらしたの。今晩、会がおありなんでしょう」
「いま、盛んにやっていますわ。あたし、よくお断わりをいって、途中から脱けて来ましたの」
「キャラコさん……」
 茜さんの視線が、キャラコさんの顔のうえから動かなくなったと思うと、間もなく、大きな眼の中から押し出すように涙があふれ出て来て眥《めじり》から顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のほうへゆっくりと下ってゆく。茜さんの咽喉の奥から、ああ、という嗚咽の声がもれ、両手で顔をおおうと、劇しくすすり泣きをはじめた。
「キャラコさん、……あたし……たったひとりだったの……」
 キャラコさんは、泣いてはいけないと思って我慢に我慢を重ねたが、こんなひどい荒屋の中で、茜さんがたったひとりで、淋しさや苦しさと戦っていたそのつらさはどんなだったと思うと、やるせなくなって、とうとうシクシクと泣き出してしまった。
 とつぜん、濡れた手がはいよって来て、しっかりとキャラコさんの手頸《てくび》をつかんだ。
「あたし、嬉しくて、気が狂いそうだわ」
 キャラコさんが、その手をにぎり返して、
「茜さん、あなた、淋しかったでしょうね。よく我慢なすったわね。ほんとうに、えらいわ。こんなところで、たったひとりで」
 茜さんは、キャラコさんのいうことなどは、まるで聞いていない。じぶんのいうことだけ早くいってしまおうというように、
「ええ、ええ。どんなに淋しかったか知れないわ。……でも、もう大丈夫。あなたが来て下さったから。なんて、嬉しいんだろう。……なんて、安心なこと。……まるで、夢のようね。あなたがいらして下さるなんて、思ってもいませんでしたわ」
「あなたは、ほんとうにひどいのよ。どうしてあたしに、知らせてくれなかったの。どんなことだってできたのに」
「でも、とても、そんな勇気がありませんでしたの」
 そういって、とつぜん、眼を輝かして、
「キャラコさん、あたし、赤ちゃんを生むのよ。……これからはどんなに生き甲斐があるか知れませんわ。……赤ちゃ[#「赤ちゃ」はママ]を生むって、どんな頼母《たのも》しい気持がするものか、あなたにはおわかりにならないでしょうね」
「ほんとうに、お目出たいわ。元気を出して、立派な赤ちゃん、生んでちょうだい」
 透きとおるように蒼白くなった茜さんの頬が、昂奮のいろで淡赤《うすあか》く染まる。そこに赤い二つの薔薇が咲き出したようにも見えるのだった。あまりよく栄養もとれなかったと見えて、面《おも》差しはたいへんやつれていたけれど、そのかわり、眼の中には、堅忍とでもいったような、ゆるぎのない光がやどっていた。『母』の、あの面差しだった。
「あたし、ついこのごろまで、あのひとをどんなに恨んでたか知れませんの。でも、そんなことは、どうでもよくなった。いま、あたしは、気が狂いそうになるくらい、嬉しいの」
 この五月に逢った時の、それとない茜さんの話では、茜さんの愛人の若い課長は、年齢の割りに少しば
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング