かり世間馴れているというだけで、そんなに性質の悪い青年というのではなかった。ただ、たいへん気が弱いので、前科者の貧乏人の妹など、家へ入れるわけにはゆかないという母の意見を押し返しかねているのだった。
 キャラコさんは、率直にたずねた。
「茜さん、それで、向うのかたは、いま、どうなってるの」
 茜さんは、なんともいえない深味のある微笑を浮べながら、
「あのひとは、やはり駄目なの、気が弱くて。でも、無理もないところもあるのよ。本当のお母さん子なんだから。……お金なんか持って来たけど、みな返してやったの。あたし、ひとりで、ちゃんと生んでみせますって。もう、何とも思っていませんわ。……ただね、……淋しいことだけが、つらかったの。……おや、また泣いてしまうところだった。もう、泣くことなんかいらない。あなたが来て下すったんですもの。……ね、キャラコさん、どうぞ、あたしの赤ちゃんを見て行ってちょうだい。それまで、そばにいてくださるわね」
「あたし、ここで、あなたと一緒に、頑張るつもりよ。だから、元気を出してちょうだい。決して、心配なさらないでね」
 茜さんは、うっとりと眼をかすませて、
「嬉しいこと! このまま死んでもいいわ」
「馬鹿なこといわないでちょうだい」
 うっとりと眼を閉じていた茜さんの声が、とつぜん[#「声が、とつぜん」は底本では「声が、、とつぜん」]、聞きとれないほど低くなる。
「気が遠くなりそうだわ。……どうしたのかしら。ちょうど、お酒に酔ったみたい」
 キャラコさんは、大きな声をだす。
「元気を出しなさい。……あなた、お産婆さんの電話番号、いえるわね。いまのうちに、あたしに教えといてちょうだい」
「世田ヶ谷の五八番、というの」
 そういい終らないうちに、茜さんが、キュッと身体を縮めながら、鋭い叫び声を上げた。
「辛いわね、辛いわね」
 キャラコさんが立ちあがった。
「あたし、お産婆さんに電話掛けて来るわ」
 茜さんの手が、えらい勢いで、キャラコさんのスカートの裾を引き止めた。
「行かないでちょうだい。どうぞ、ここにいて……。恐《こわ》いわ、恐いわ」
 さっきのおだやかな表情はなくなって、劇《はげ》しい不安と恐怖でひき歪んだ顔で、囈言《うわごと》のように叫びつづけるのだった。
「始まったわ、始まったわ。……キャラコさん、ここへ坐って、どうぞ、手を握らしてちょうだい」
 キャラコさんも、すこし周章《あわて》ている。両手でしっかりと、茜さんの手を握った。
「そうじゃないの。あたしにあなたの手を握らせて!」
 冷たい小さな手が、むやみな力でキャラコさんの手を握りしめる。
「あなたの手が、すっぽり抜けて行きそうだわ。もっと、しっかりつかましてちょうだい」
 小刻みな痛みが頻繁に来るらしく、そのたびに異様な力で、ギュッと握りしめて来る。
(誰でもいいから、ひとりいてくれると、いいんだけど。ほんとうに困ったわ!)
 キャラコさんの頭に、ふと、ある考えがひらめいた。
(できるだけ賑《にぎ》やかにして、不安をなくしてあげよう!)
 キャラコさんが、精一杯の声で叫ぶ。
「茜さん、いま、うんとにぎやかにしてあげますからね、ちょっとの間、ひとりで頑張っていてちょうだい。いいわね、手を抜いてよ」
 不安がって、切れぎれに叫ぶ茜さんの声を聞き流して戸外へ飛び出すと、夢中になって、以前の荒物屋のほうへ駈け出した。公衆電話は、荒物屋の角にある。それは、さっき見ておいた。
 息せき切って、公衆電話の中へ飛び込む。先に産婆さんにすぐ来てくれるよういって置いて、麻布の沼間の家へ電話を掛けた。驚いて、沼間夫人が電話口へ出て来た。
「たいへんなことが始まっているんですから、ボクさんだけを除《の》けて、皆んなですぐここへやって来てちょうだい。今日は、あたしのための送別会なんですから、何もたずねないであたしのいう通りにしてね。ひとり残らず自動車に乗って、こっちへやって来てください。すぐね。……どうぞ、すぐね」

     四
 警笛が、草原いっぱいになって、威勢よくヘッド・ライトを光らせた自動車が、十二三台、次ぎつぎに前の荒畑へ乗り込んで来る。
 長六閣下。沼間夫人と森川夫人。槇子《まきこ》と麻耶子《まやこ》。梓《あずさ》さんをはじめ五人のやんちゃなお嬢さんたち。秋作氏。久世《くぜ》氏。保羅《ぽうる》さんに礼奴《れいぬ》さん。四人の科学者たち。それから、まだ続々。最後の車から、御母堂と苗木売りの老人がゆっくりと降りて来る。産室の隣りの二間に、これだけの人数が、ギッチリと詰まってしまった。
 みなが魂消《たまげ》たような顔をして坐っているのへ、キャラコさんが、中腰のまま、かいつまんで事情を話した。頑固な愛人のお母さんのことや、尻込みばかりしている愛人のことも。
「こんなわけですから、できるだけにぎやかにして、心細くなく、安心して生ましてあげたいと思って、それで、ご無理をいって、みなさんに来ていただきましたの。ただ、ここに坐っていて下さるだけで、充分なのよ。あの気の毒な茜さんに、どうぞ、力をかしてあげてちょうだい」
 長六閣下が、まっ先に、うなずいた。
「うむ、よかろう」
 イヴォンヌさんが、手を拍《たた》きながら踊りあがった。
「まァ、素敵だこと! 赤ちゃ[#「赤ちゃ」はママ]が見られるわ」
 五人のお嬢さんたちが、一斉に手をたたいた。
「わァ、万歳! 万歳!」
 襖の向うから、茜さんが力弱い声で呼び立てる。
「キャラコさん、……キャラコさん」
 キャラコさんが、威勢よく襖を開けて茜さんの枕元へ飛んで行く。茜さんが、もの怯《お》じしたような眼付きで、キャラコさんを見あげながら、
「キャラコさん、いったい、何が始まったんですの」
 キャラコさんは、襖のところまで戻って行って、そこを一杯に引き開ける。
「茜さん、ちょっと、見てごらんなさい。ここに、こんなに大勢のひとがいますよ。あなたに元気をつけて、立派な赤ちゃんを生んでいただくために、東京から自動車で駈けつけて来てくれましたの。……何人いるのかしら。……一人、二人、三人。……廿五人もいますね。これだけの手がそろっていれば、なんだってできないっていうことはありませんのよ。もう、何も恐がらなくってもいいの。安心してちょうだい」
 茜さんの眼が、涙の奥からキラキラ輝く。
「こんなに大勢の方が……。あたし、もう、これで……」
「おっと、どっこい、どっこい、ここまで漕ぎつけたのに、死にたくなったりしては駄目よ」
 御母堂が、恰幅のいい身体をゆすりながら、茜さんの枕元へ近づいて行く。盛りあがるような膝でゆったりと坐って、
「茜さんとおっしゃるか。……こういう老人《としより》が来たからは、もう、何も心配はいりません。立派な赤ちゃんを生んで、お手柄をなさいよ」
「ありがとう……ございます……」
「出しゃばりのようだけど、ここには剛子の父も来ていますし、久世さんなんかもいられますから、もし、あたしたちがお取り持ちしていいなら、皆んなでじっくり相談して、必ず、そのお母さんという方を説き伏せて上げますから、そのほうの心配もしないでね」
「ほんとうに、……なんと、お礼を申し上げて、いいか……」
「こらこら、これぐらいのことで泣くひとがありますか。これから元気で赤ちゃんを生まなければならないひとが」
「なんだか、あまり、嬉しくて……」
 長六閣下が、のっそりと、やって来る。
「あなた、男を生まんといけんぞ。いいか」
 茜さんが、涙の中で、微笑する。
「ええ」
 御母堂が、身体をねじ向けながら、
「キャラコさん、産婆さんのほうは、もういってあるの」
「もう、間もなく来るといっていました」
「それでいい。……どうしてまだ、なかなか。あわてるには及ばない」
 それから、梓さんたちの組のほうへ向って、
「さあさあ、あなたがた。キャラコさんに手伝って、お釜でお湯を沸《わか》してちょうだい。火の起こし方を知っていますか」
 鮎子さんが、威勢のいい声をだす。
「知っていますわ、おばさま」
「そんなら、そろそろ取り掛かってちょうだい。……それから、秋作さん、あなた、気の毒だけど、槇子《まきこ》さんにつき添って行って、入用なもの、薬局で買って来て、ちょうだい。寝ていたら、かまわずたたき起こしなさい。せめて、それくらいのことをしなければ、来た甲斐がないでしょう。……それから、大学の先生たち、あなたがたのどなたか、大学病院の産婦人科へ電話を掛けて、ご懇意の先生と連絡をとっといていただきましょうね。そんなこともあるまいけど、むずかしくなったらすぐ駈けつけて来てもらえるように、わかりましたね。……それから、保羅《ぽうる》さんに、礼奴《れいぬ》さん、そんな吃驚《びっくり》したような顔をして、ウロウロしていないで、元気よく歌でもお唄いなさい。……ああ、そうだ、植木屋のお爺さん、あなた、提灯《ちょうちん》をつけて、盥《たらい》を探して来てちょうだい。お嬢さんたちじゃ危なかろうから」
 御母堂の命令に従って、みなが、忙がしそうに働き出す。
 キャラコさんと梓さんたちの組は、大騒ぎをしながら、竈《へっつい》の周囲《まわり》でウロウロする。苗木屋のお爺さんが、提灯へ火をつける。礼奴さんと保羅さんは、何を考えたか、大きな声で、『サンタ・ルチア』を歌い出した。これも周章《あわて》ているのに違いない。
 そこへ、産婆さんが、あたふたと駈けつけて来た。この破屋《あばらや》に花のようなお嬢さんたちだの、厳《いか》めしい八字髭などが大勢目白押ししてるので、おやおや、と、吃驚《びっくり》してしまう。
 茜さんが、酔ったような声で、いう。
「お産婆さん、このかたたちはみな、あたしに元気をつけるために、来て下さったのです。こんなに大勢いて下すったら、ちっとも心配なことはありませんねえ。あたし、もう、恐いことはなくてよ。きっと頑張ってみせますわ」
「そうそう、その元気、その元気」

 茜さんは、身体が衰弱していたので、なかなかの難産だった。陣痛のひどい頂上で、眼の中が白くなりかけ、産婆さんが、これは、と首を傾《かし》げたような瞬間もあったが、頑張って、とうとう怺《こら》え通した。
 十一時過ぎになると、産婆さんが、
「どうか、そろそろ御用意を」と、いった。
 これで、百姓家の中が、にわかに色めき立った。キャラコさんが、湯柄杓《ゆびしゃく》を持ったまま、勝手口を出たり入ったりした。鮎子さんたちは、土間の暗いところにひとかたまりになって、互いにギュッと手を握り合いながら、切迫詰まったような顔をしていた。長六閣下は、立ったり坐ったりしながら、うむ、これは困った困った、と、いった。御母堂だけは、茜さんの手をしっかりと握って、
「さア、しっかり、しっかり。なんだ、こんなことぐらいで」
 と、しきりに、元気をつけていた。
 産室のほうから、それこそ、天地を突き破るかと思われるような、力みのある産声が聞えて来た。
「おぎゃあ」
 みなが、われともなく、諸声で、わア、と、声を上げた。
「お生まれになりましたよッ、立派な男のお子さんです!」
 感極まったようになって、みなが、パチパチと手を拍いた。キャラコさんも、やんちゃなお嬢さんたちも、みな、涙ぐんでいた。
 除夜の鐘が鳴り出した。新しい年が来た。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さ
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