立つまい?」
「でも、どうぞ」
「自分で使おうと思うから迷いが起きる。他人《ひと》に使われると思いなさい。だいたい、その辺へ精神をすえて置けば、たいして間違った使い方もせずにすむだろう」
長六閣下は、※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》のほうへ向きなおって、靫《ゆぎ》から矢を抜き出す。
キャラコさんは、スゴスゴとじぶんの部屋へ戻って来た。
一日おいて、その翌朝《あくるあさ》、キャラコさんは、威勢よく長六閣下の部屋へ入って行った。
「お父さま、あたし、いま中支《ちゅうし》でやっている同恵会の仕事を見学に行きたいと思うんですけど……」
長六閣下は、書見台《しょけんだい》から顔をふり上げて、
「よかろう」
と、それだけ、いった。
名目は薬局員ということにし、同恵会の仕事の全部にわたって、できるだけ実際にたずさわらしてもらうことに了解がついた。
出発は、一月一日の夕方ということに決まった。
二
今夜の会合は、キャラコさんの新しい出発へのお祝いと送別を兼ねた晩餐会だった。
キャラコさんは、この送別会を機会に、この十一ヵ月の間に触れ合った全部のひとたちを招いて、何かひと言挨拶したいと思った。さまざまな起伏のすえ、幸福になったひとたちの顔々《かおがお》を、この新しい出発を前に、もう一度つくづく眺めておきたかった。
部屋の隅の路易《ルイ》朝ふうの彫刻《ほり》のある大きな箱時計が六時を打つ。
どうしたのか、茜さんは、やって来ない。
それから、また十五分。晩餐は正確に六時に始めることに書いてやってあったのだが、十五分過ぎてもまだやって来ない。
キャラコさんは、落ち着かない思いで、客間の入口のほうばかり眺めていた。
玉川の奥からやって来るのでは、電車などの都合で、このくらい遅れることはあるかも知れない。茜さんには、五月の末ごろ、一度元気な顔を見たきり、その後、かけ違って会っていない。
だから、いま、どんな事情になっているのか、まるっ切り察しようがなかった。
とうとう、半になる。それでも、茜さんは、やって来ない。
麻耶子が、キャラコさんのそばへやって来て、ひくい声で、
「あまり、遅くなりはしない? 始めながら待っていてはどうかしら。……もっとも、これ、ボクばかりの意見じゃないんだよ。鮎子さんたちの組が、みなお腹《なか》をすか
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