これぐらいのことで泣くひとがありますか。これから元気で赤ちゃんを生まなければならないひとが」
「なんだか、あまり、嬉しくて……」
長六閣下が、のっそりと、やって来る。
「あなた、男を生まんといけんぞ。いいか」
茜さんが、涙の中で、微笑する。
「ええ」
御母堂が、身体をねじ向けながら、
「キャラコさん、産婆さんのほうは、もういってあるの」
「もう、間もなく来るといっていました」
「それでいい。……どうしてまだ、なかなか。あわてるには及ばない」
それから、梓さんたちの組のほうへ向って、
「さあさあ、あなたがた。キャラコさんに手伝って、お釜でお湯を沸《わか》してちょうだい。火の起こし方を知っていますか」
鮎子さんが、威勢のいい声をだす。
「知っていますわ、おばさま」
「そんなら、そろそろ取り掛かってちょうだい。……それから、秋作さん、あなた、気の毒だけど、槇子《まきこ》さんにつき添って行って、入用なもの、薬局で買って来て、ちょうだい。寝ていたら、かまわずたたき起こしなさい。せめて、それくらいのことをしなければ、来た甲斐がないでしょう。……それから、大学の先生たち、あなたがたのどなたか、大学病院の産婦人科へ電話を掛けて、ご懇意の先生と連絡をとっといていただきましょうね。そんなこともあるまいけど、むずかしくなったらすぐ駈けつけて来てもらえるように、わかりましたね。……それから、保羅《ぽうる》さんに、礼奴《れいぬ》さん、そんな吃驚《びっくり》したような顔をして、ウロウロしていないで、元気よく歌でもお唄いなさい。……ああ、そうだ、植木屋のお爺さん、あなた、提灯《ちょうちん》をつけて、盥《たらい》を探して来てちょうだい。お嬢さんたちじゃ危なかろうから」
御母堂の命令に従って、みなが、忙がしそうに働き出す。
キャラコさんと梓さんたちの組は、大騒ぎをしながら、竈《へっつい》の周囲《まわり》でウロウロする。苗木屋のお爺さんが、提灯へ火をつける。礼奴さんと保羅さんは、何を考えたか、大きな声で、『サンタ・ルチア』を歌い出した。これも周章《あわて》ているのに違いない。
そこへ、産婆さんが、あたふたと駈けつけて来た。この破屋《あばらや》に花のようなお嬢さんたちだの、厳《いか》めしい八字髭などが大勢目白押ししてるので、おやおや、と、吃驚《びっくり》してしまう。
茜さんが、酔ったよ
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