は、いかにも澄みわたった、おだやかな、満ち足りたような楽しげな老人のようすだった。
せっせと秣《まぐさ》をかきまぜているときのこころの深いやさしいそぶり。……恐らくは、遂《と》げられそうもない馬との約束。……弁当の包みを膝にのせながら、微妙な季節の移り変わりに驚歎している赤子《あかご》のような無心な表情。……落葉のたまった水飲み台から一杯の水をくんで、それを飲むときの喜悦にかがやきわたるような顔。……稗《ひえ》か麦の貧《まず》しい握飯《むすび》を、尊い玉ででもあるかのように両手で捧げ持っている敬虔なようすも、見るたびに、無垢な感動を、キャラコさんのこころのなかにひきおこす。
とりわけ、ベンチや、水飲み台や、まわりの草や花に、いちいち愛想よく別れの挨拶をする底知れない善良なようすを見ると、思わず、微笑んだり、ほろりとしたりする。
「なんといういいおじいさんなんだろう。いったい、どんな生活をしてきたひとなのかしら……」
じっさい、どういう紆曲《うきょく》を経て、このような調和のとれた忍辱《にんじょく》の世界に到達したのであろう。こんな朴訥《ぼくとつ》な、無心な老人が、まだこの世に生きているということすらが、すでに信じられないほどのことだった。
キャラコさんは、遠い憧憬に似た感情を心にかんじながら、こんなふうにつぶやく。
「いちど、あのおじいさんと、お話して見たいわ」
そのそばに坐って、季節のはなしや小鳥のはなしをするだけでも、なんともいえない楽しい気持になり、こころの隅々にまで清《すが》すがしい風が吹きこんでくるようなうれしい思いがするにちがいない。
しかし、眺めていると、老人と馬のいとなみは、いかにも緊密で、しっくりと調和がとれているので、二人だけの深い生活の中へ、じぶんのようなものがささり込んで行くのは、いかにも心ないやりかたのように思われて、まいにちすぐ眼のしたに老人の姿を見ながら、おもいきって言葉をかける勇気がでてこなかった。
「あたしのようなものが飛び込んで行ったら、きっと迷惑するにちがいないわ。……それにしても、ちょっとお話するくらいのことはいけないかしら……」
だいぶ長いあいだもだもだしたすえ、キャラコさんは、とうとう決心した。
「こんにちは、というだけで、いいわ。……ただ、こんにちは、というだけ……」
昼御飯を早めにすますと、ひと束の長人参《ながにんじん》をうしろに隠して、公園の入口で待ち伏せしていた。キャラコさんのつもりでは、この人参で、老人にちかづきになるキッカケをつくろうという肚黒《はらぐろ》い計画なのである。
いつもの時間になると、すこし坂になった土手沿いの道のむこうに、おじいさんの馬車が見えだしてきた。
キャラコさんのほうは、馬と老人を策略にかけてちかづきになろうという下心があるので、なんとなく平気になれない。
「こんなふうにしていると、まるで、不良少女のようだわ」
不良少女はともかくとして、自分に関係のない他人の生活に興味をもって、ひと束の人参を手土産にして、うやむやにささり込んで行こうなどというのは、たしかに、あまり趣味のいいことではない。
キャラコさんが、まとまりのつかない顔をして立っているうちに、馬車はいつものところでとまり、老人は馬車のほうへのびあがって秣槽《まぐさおけ》をおろしはじめた。
キャラコさんは、それをぼんやりと眺めながら、足踏みでもするような曖昧な身振りをする。そのはずみに、うしろに隠していた人参が、ごつんとふくら脛《はぎ》にぶっつかる。
(ああ、そうだっけ!)
三四歩|後退《あとじさ》りをすると、公園に散歩にでも来たお嬢さんのような、なにげないようすで老人のほうへ歩み寄りながら、こんなふうに声をかける。
「おじいさん、こんにちは。……あたし、公園へ散歩に来ましたのよ」
老人は、秣をかきまぜる手をやすめて、ゆっくりとキャラコさんのほうへふりかえると、片手で頬かぶりをしていた手拭いをとって、
「やあはれ、それはお元気なこって……。いやはや、こんなところへ馬車をばつなぎまして、お邪魔なこってござります」
キャラコさんは、へどもどして、
「いいえ、そんなことはありませんわ。いつまででもつないでおいてちょうだい」
老人は、それこそ、橋がかりへ出て来た高砂の尉《じょう》のようなおっとりしたしかたで小腰をかがめて、
「そんならば、ちょっとの間《ま》、ここへ置かせていただきますでござります」
と、いって、またゆっくりと秣槽を取りおろしにかかる。つぎ穂がなくなりそうなので、キャラコさんは、あわててでまかせなお愛想をいう。
「おじいさん、ずいぶん立派な馬ですね。……それに、利口そうな顔をしてますわ」
老人は、皺だらけの顔を笑みくずして腰をのばすと、可愛くてたまらないというふうに、馬のほうへ流眄《ながしめ》をつかいながら、
「……こんな片輪ものですけに、立派ということはござりませんがな、気のいいことにおいては、けして、ほかの馬にひけをとらんのであります」
「それに、元気そうですわ」
「いやはや、わし同様、すっかり老いぼれてしまいまして、はやもう、なんの芸もないのでござります」
「そんなに謙遜なさらなくてもだいじょうぶよ。だれが見たって感心するにきまってますわ。うちにも一匹おりますけど、とても、この馬とはくらべものになりませんの」
「お嬢さま、あなたは、ほとほと馬がお好きと見えまするの」
「ええ、大好きですわ。でも、こんな立派な馬を見るのははじめてよ。……なるほど、すこし跛《ちんば》をひくようですけど、そんなことは欠点にならないとおもいますわ。なによりだいじなのは、優しいということよ。……それはそうですわねえ、おじいさん。あなただって、そうお思いになるでしょう。いくら走るのが速くても、力があっても、意地悪ではとるところがありませんわ」
老人は、嬉しそうにうなずいて、
「はい、仰せのとおりなのでございまする。何がどうあろうと、情け知らずでは駄目でござります。けだものと人間が、ながねん連れそって暮らしてゆくには、お互いの親切がなくてはやってけんのでござります」
そして、皺の中へ眼をなくして、また、いとしそうに馬のほうへふりかえりながら、
「こいつはまァ、気のいい、ひと懐《なつ》っこいやつではありまするが、ただひとつ困ったことは、喰べるものに気むずかしいことでござります。……それと申しますのも、あまり、甘やかしたせいでござりましょうなれど、乾草《ほしぐさ》や藁《わら》などは見向きもいたしませぬ。……牧草でも、レッドトップならば匂いぐらいは嚊《か》ぎまするが、チモーシとなれば、はやもう、鼻面《はなづら》も寄せん。燕麦《えんばく》に大豆。それから、※[#「麥+皮」、第3水準1−94−77]《ふすま》に唐もろこし。……それも、水に浸して挽割《ひきわり》にし、糠《ぬか》と混ぜて練餌《ねりえさ》にしてやるのでなければ、てんから受けつけんのでござります」
老人は、夢中になって、人の好さそうな顔を紅潮させながら、
「ああ、じっさい! なんということでござりましょう!……林檎《りんご》を日に五つずつ。……角砂糖は喰べ放題。……カステラを喰べ散らすやら、蕪《かぶ》大根《だいこん》を噛んで吐き出すやら、なかんずく、人参と来ましたら、一倍と好みがやかましく、ありふれた長人参では啣えてみようともいたしませぬ。ベルギーという白っこい温室できのやつでなければ、お気に召さんのでありまする。……華族さまのお馬といえども、こんな贅沢はいたしますまい。どうにもはや、手のかかるやつなのでござりまする」
そういって、うれしさのあまり、感きわまったように身ぶるいをした。
ああ、この老人は嘘をいっている!
ようやく飼料桶《かいばおけ》の底が隠れるくらいの乾草に、ひと握りのほどの糠《ぬか》をまぜ、最後のひとつまみまでを指で集めて喰べさせているのを、キャラコさんは、これでもう、十日もまいにち見ているのだ。情けなそうに首をふりながら、この苗木が売れたら、人参を三銭も買ってやるから、ひもじくとももうしばらく我慢をしろ、と判でおしたように同じ言葉でなぐさめることも!
しかし、これを嘘といってはいけないのであろう。老人は夢を語っているのだ。貧窮のなかで、この夢想だけが老人の慰めなのであった。
もし、誰れかが、
(おじいさん、あなたは、たいへんな嘘つきだ。あなたは、この馬に、すこしばかりの乾草と、ひと握りの糠しか食べさせていないじゃないか)
と、いったら、この老人は、絶望のあまり泣きだしてしまうにちがいない。
キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。喉の奥のところに、固いものが突っかけてきて、すんでのことに、涙を見せるとこだった。
老人は、酔ったようになって、いかにも誇らしそうに両手を擦《こす》り合わせながら、
「……いま申しましたように、たとえようのない我ままなやつではありまするが、そうならばそうで、いっそうに愛らしく、はや、どうにもならぬ始末なのでござります。……まったく、こんなしあわせなやつは、この世にまたとあろうとも思われませぬ。……あの顔をば見てやってくださりませ。……なんという小癪《こしゃく》らしい、可愛げな顔ばしているのでありましょう」
たしかに、こういう見方もあるのに相違ない。
頭の禿げた、悲しげな顔をした馬は、いかにもひだるそうに、力なく横腹に波うたせながら、首を垂れ、うっそりと眼をとじている。しかし、仮に、老人の意見を認めるとすれば、飽食《ほうしょく》の、満ち足りた幸福の絶頂で、うつらうつらしているのだと、考えて考えられぬこともない。
キャラコさんが、感動の極といったような声を、だす。
「そうだとすれば、なんという贅沢な馬さんなんでしょう! そんなしあわせな馬さんなんて、あとにもさきにも聞いたことがありませんわ」
「じつに、はやもう!」
「あたし、この馬さんを見たとき、なんというおっとりとしたようすをしているんだろうと、思いましたの。まったく、理由のないことじゃありませんでしたわ。そんなにだいじにされて、したいようにしているのだから、それで、こんな上品な顔つきになるのですね」
キャラコさんは、嘘をついたのではない。ほんの、ちょっとばかり、誇張したのに過ぎない。老人の夢に賛成することが、老人を慰めるいちばんいい方法だと思ったから。……そして、ひょっとして、こんなふうにでもいったら、見向きもしないというこの長人参を、気位《きぐらい》の高いこの馬さんに食べていただけるようなことになるかも知れないと思って。
背中に隠している長人参の葉が、キャラコさんの手のなかで火のように燃える。なんとかして、この施物《せぶつ》を受けとらせるうまい口実を探し出そうと思って、キャラコさんは、夢中になってあれこれとかんがえはじめる。
ともかく、老人は、すこしばかりいいすぎたようだ。今となっては、どうしたってこの長人参を受けとるわけにはゆくまい。
(長人参などときたら、くわえても見ようとしないのでござります)
そのひとことが、たいへんな重石《おもし》になってしまった。老人は、自分の夢を語るのに一生懸命で、キャラコさんの腰骨《こしぼね》のあたりからソッとのぞきだしている、目のつんだきれいな人参の葉っぱに気がつかなかった。それにさえ気がついていたら、こうまでひどく人参を軽蔑するようなことはしなかったであろう。
ああ、じっさい! キャラコさんのほうにしたってそうだ。こういう経過のあとで、この人参を受けとらせようとするのは、なかなかなまやさしいことではないのである。
水気の多い、見るさえ美味《うま》そうな、このひと束の人参!
歯のあいだで噛みしめたら、口のなかが清々しい匂いでいっぱいになってしまうにちがいない。シャリシャリいう、なんともいえない歯あたりと、どこか、すこしばかりピリッとした甘い漿液《しる》!
四半桶の秣《まぐさ》と、ひと握りの糠《ぬか》しか食べていない、この餓
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