《ひも》じい馬にとって、それはまあ、なんという素晴らしい御馳走なのであろう! そしてまた、老人にとっても、それを喰べている自分の馬を眺めるということは、どんな有頂天な喜びであろう。
 ほんのちょっとしたことだった。長人参の悪口さえいわなければ、馬も老人も、わけなくその喜びを味わうことができたのだった。
 キャラコさんは、逆《のぼ》せあがったような気持になる。どんな卑劣なことをしてでも、馬と老人にその喜びを味わわせてやりたいと思って、気もそぞろになる。
 キャラコさんが、そろそろと切りだす。
「……ねえ、おじいさん。……これは、ほんの譬《たと》えばなしですけど、だれか通りがかりのひとが、この馬さんを見て、すっかり気に入ってしまうとしますね」
「ああ、ありそうなことでござります」
「……それで、ご褒美《ほうび》になにか美味《おいし》いものを、馬さんの口元へ差しつけたとしますね。……すると、この馬さんは、いったい、どうするかしら?」
「はい、それは、ものによるのでござります」
「すると、気にいったものなら、食べてもらえるわけなのね」
「かくべつ、遠慮するようなこともいたしますまい」
「もし、長人参だったら、どうでしょう」
「いやはや、それは……」
「やはり、喰べませんかしら」
「傲《おご》ったことをもうすようですが、こいつの口は、あげな棒っ切れのようなものを食べるようには、できておらんのでござります」
「無理に口へ押しつけたら?」
「ああはや、飛んでもない! そのようなことをして、こやつに、フウッと太い鼻息でもひっかけられなんだら、そのひとのしあわせというものでござります」
「……でもね、おじいさん。……あたしたちなら、ひとの親切を感じたら、どうしても嫌《きら》いでないかぎり、我慢して食べるようなことだってしますわね」
 老人は、重々《おもおも》しく首を振って、
「いやはや、こやつでは、とてもそういう都合にはゆきますまいて……。鼻の先へおしつけられさえすれば、見さかいもなく、なんにでもむしゃぶりつくような馬とは、育ちがちがうのでござります。……見てもくださいませ。……あの上品らしい口が、ブランと長人参をくわえるありさまなどは、考えるだも、身の毛がよだつような思いがするのでござります」
 キャラコさんが、ねじのゆるんだような声を、だす。
「なんという気品の高い馬さんなんでしょう。ほんとうに、感心しましたわ」
 こんな棒切れのような長人参などを二人の前へさしだしたら、馬も老人も、軽蔑のあまり笑いだしてしまうことだろう。ひょっとしたら、屈辱《はじ》の感情のために、真っ赤になってしまうかも知れない。
 キャラコさんは、老人にも馬にも見えないように、後手で人参の束を地面へずりおとすと、靴の踵《かかと》でそっと溝《どぶ》の中へ押し落としてやった。
「……おじいさん、あなたのおっしゃるとおりですわ。……長人参を食べる馬なんか、ほんとうに、下等ね」



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年11月号
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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