くりと腰をのばして、陽ざしをながめる。
「おお、てんとうさまがお見えにならしゃった。……それならば、この間《ま》に、もうひと廻りしようぞ。……どっこいしょ、どっこいしょ」
 と、掛声をかけながらベンチから立ちあがって、
「おおきにお世話さまになりました。……では、また明日《あす》。……はい、さようなら。……はい、さようなら……」
 と、水飲み台や、ベンチや、まわりの草や樹《き》にいちいち愛想よく挨拶すると、背中を丸くして跛《ちんば》をひきながら、馬のいるほうへヒョックリ、ヒョックリ戻ってゆく。
 老人の姿が公園の入口の石段のところにあらわれると、馬は、いかにも待ちどおしかったというように、首を大きくあげたりさげたりしながら、ひひんと嘶《いなな》く。老人は馬のそばへちかづいていって、
「おう、おう、待ちどおだったか、待ちどおだったか」
 と、いって、平手で、軽くその首をたたくのである。

     二
 キャラコさんの部屋の東側の窓は、公園の土手の真上にあいているので、そこから、広場の半分と、公園の入口と、休憩所の全部をひとめでみわたすことができる。
 春から夏までのあいだは、子供たちが朝早くから走りまわるし、男や、女や、年寄りや、兵隊や、さまざまな人々が、いりかわりたちかわり公園へやってくるので、その老人だけに特別な注意をひかれるようなこともなかったが、だんだん秋が深くなって公園を散策する人影もまれになると、たとえば、木の葉が落ちて、今まで隠れていた空が急に見えだすように、この老人の存在がはっきりと目につくようになった。
 老人は、まいにち同じころにやってきて、同じような単純なことをくりかえすだけなのだが、なんでもないその平凡な動作のうちに、たとえようもない人の好さと善良さがうかがわれるので、見ていると、なんともいえない豊かな気持になる。
 キャラコさんは、馬を公園の入口につなぐところから、また馬車へ戻ってくるまでの、馬と老人の営みをまいにち窓からながめていた。
 誰れも注意のはしにさえとめないような、みすぼらしい老人と、ふきだしたくなるような跛《ちんば》の痩せ馬の平和な交渉をながめているときくらいたのしいことはない。こんなうれしい気持をあじわったことは、生まれてからまだ一度もなかったといってもいいくらいだった。
 何にもまして、キャラコさんのこころをつよくうったのは、いかにも澄みわたった、おだやかな、満ち足りたような楽しげな老人のようすだった。
 せっせと秣《まぐさ》をかきまぜているときのこころの深いやさしいそぶり。……恐らくは、遂《と》げられそうもない馬との約束。……弁当の包みを膝にのせながら、微妙な季節の移り変わりに驚歎している赤子《あかご》のような無心な表情。……落葉のたまった水飲み台から一杯の水をくんで、それを飲むときの喜悦にかがやきわたるような顔。……稗《ひえ》か麦の貧《まず》しい握飯《むすび》を、尊い玉ででもあるかのように両手で捧げ持っている敬虔なようすも、見るたびに、無垢な感動を、キャラコさんのこころのなかにひきおこす。
 とりわけ、ベンチや、水飲み台や、まわりの草や花に、いちいち愛想よく別れの挨拶をする底知れない善良なようすを見ると、思わず、微笑んだり、ほろりとしたりする。
「なんといういいおじいさんなんだろう。いったい、どんな生活をしてきたひとなのかしら……」
 じっさい、どういう紆曲《うきょく》を経て、このような調和のとれた忍辱《にんじょく》の世界に到達したのであろう。こんな朴訥《ぼくとつ》な、無心な老人が、まだこの世に生きているということすらが、すでに信じられないほどのことだった。
 キャラコさんは、遠い憧憬に似た感情を心にかんじながら、こんなふうにつぶやく。
「いちど、あのおじいさんと、お話して見たいわ」
 そのそばに坐って、季節のはなしや小鳥のはなしをするだけでも、なんともいえない楽しい気持になり、こころの隅々にまで清《すが》すがしい風が吹きこんでくるようなうれしい思いがするにちがいない。
 しかし、眺めていると、老人と馬のいとなみは、いかにも緊密で、しっくりと調和がとれているので、二人だけの深い生活の中へ、じぶんのようなものがささり込んで行くのは、いかにも心ないやりかたのように思われて、まいにちすぐ眼のしたに老人の姿を見ながら、おもいきって言葉をかける勇気がでてこなかった。
「あたしのようなものが飛び込んで行ったら、きっと迷惑するにちがいないわ。……それにしても、ちょっとお話するくらいのことはいけないかしら……」
 だいぶ長いあいだもだもだしたすえ、キャラコさんは、とうとう決心した。
「こんにちは、というだけで、いいわ。……ただ、こんにちは、というだけ……」
 昼御飯を早めにすますと、ひと束の長人
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