手でやさしく馬の鼻面をおさえ、片手で秣のなかの木片や小石をとりのけながら、こんなふうにいってきかせているのである。
「待ってろな。……いつぞやのように、釘なぞはいっていたら、また口を傷《いた》めるだろが。……ほらほら、もう、すぐぞ、もう、すぐぞ」
まるで、大膳職《だいぜんしょく》のように、あれこれと細かく念をいれたすえ、ようやく飼料《かいば》が出来あがる。
老人は、秣槽《まぐさおけ》を飼料台の上にのせ、馬が喰べはじめるのを、後手《うしろで》をしながら、ひととき、うっとりとながめる。
「たんと、喰べろ、たんと、喰べろ」
そういいながら、着物をだいじにするひとがちいさな汚点《しみ》でも気にするように、馬の横っ腹にくっついた泥の飛沫《はね》を、掌でていねいにぬぐってやる。
「たんと喰べろ。……あわてずと、ゆっくり喰べえよ」
ところで、槽《おけ》の中にはたんと喰べるほどの秣ははいっていない。間もなく槽の底が見え出す。
馬は脅腹《わきばら》のところをピクピクさせながら、眼のところまで槽の中へ突っこんで、ぐるりについている秣のきれっぱしを舐《な》めとろうとするが、馬の唇ではそれをつまみとることができない。
すると、老人は、
「おお、よしよし」
と、いいながら、秣の屑を丹念にかきあつめ、それを掌《て》にのせて馬の鼻先へさしだしてやる。馬は、長い舌でデレリと舐めとると、満足したというふうに、眼を細くして、鼻面で老人の肩へしなだれかかる。
老人は、平手でやさしく馬の首をたたく。
「おお、すんだか、すんだか。……せめて、もう四半桶《しはんおけ》もほしかろうも、がまんせい」
そして、馬車の上の苗木のほうを顎で差して、
「あれが、一本でも売れたら、胡蘿蔔《にんじん》を三銭買ってやるけに、たのしみにして待っていろよ」
いつの日も、判でおしたように、これをくりかえす。これほど胸をうたれる光景はなかった。
老人は、馬車の側板《わきいた》の折り釘に引っかけておいた小さな包みをはずすと、
「では、おれは、午食《ひる》をつかってくるけに、しばらくここで待っていろ、いいか」
と、いいきかせて、軽い跛《ちんば》をひきながら公園のなかへはいってくる。
やれやれというふうにベンチへ腰をおろすと、弁当の包みをたいせつそうに膝のうえへおいて、ニコニコと笑いながら、ひとわたりグルリと公園のなかを見まわす。
この小さな公園の樹《き》も草も、花も、みな、この老人の親しい友達なのにちがいない。その証拠には、この老人は、ひとの眼に触れたこともないような、藪《やぶ》かげの一輪の花の消息にさえ、ちゃんと通じているのである。
たのしそうに、あちらこちらの繁みや藪かげをのぞき込みながら、
「花菅《はなすげ》は、もう終りだ」
と、つぶやいたり、
「おや、唐胡麻《とうごま》は、きょうは元気ないの」
などといったりする。
花菅も、唐胡麻も、眼につくようなところにあるのではない。よほど注意して見なければわからないような、深い藪かげにあるのである。
たんのうするだけ花や草に挨拶すると、老人は水飲み台のほうへ立っていって、備え付けのアルミニュームのコップに、いっぱい水をくむ。それを口へもっていってすっかり飲みほすと、
「ああ!」
と、深い溜息をつきながら、空をあおぐ。
それは、このうえもない満足をあらわすしぐさなのだが、滑稽でもあり、あわれでもあった。
それから、ベンチへ帰ってきて、ゆっくりと風呂敷包みをとく。こんなことをいっては申し訳ないのだが、その握飯《むすび》は、びっくりするほど黒い色をしている。それに、二つに割ったその芯《しん》には、何ひとつ慰みになるようなものもはいっていない。
老人は、それを大切《だいじ》そうに両手のなかで捧げ持って、舌づつみをうちながらゆっくりゆっくり食べはじめる。ひと口|頬張《ほおば》っては、この世にこれ以上の珍味はないというふうに、
「うむ」
と、感にたえたような声をだす。
老人は、上顎にも下顎にも一本も歯がないと見えて、口をムグムグやるたびに、皺だらけの頬がじつに奇妙な動きかたをする。上唇と下唇がいっしょくたになって、鼻の下まで飛びあがり、唇の両端が耳のそばまであがっていって、お能の翁の面のような、なんともいえぬ味わいの深い顔になる。
老人は、勿体なそうに、ひと口ずつたいへん手間をかけて食べる。しかし、世にも楽しそうなこの食事も、そうながくかかるわけではない。握飯《むすび》は子供の握り拳《こぶし》ほどの大きさしかないので、まもなくすんでしまう。
老人は、指についた飯粒を唇でていねいにひろいとり、よれよれになった風呂敷を畳んで膝のうえにおくと、後味をたのしむように、うっとりとした顔でしばらくじっといる。それから、ゆっ
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