キャラコさん
雁来紅の家
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)骨董店《こっとうてん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|間《けん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]
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     一
 市ヶ谷加賀町から砂土原町のほうへおりる左内坂の途中に、木造建ての小さな骨董店《こっとうてん》がある。
 西洋美術骨董、と読ませるつもりなのだろう、はげちょろになった白ペンキ塗りの看板に、"FOREIGN ART OBJECTS" と書いてある。
 一|間《けん》ほどの飾窓《ショウ・ウインドウ》のついた、妙に閉《し》め込んだ構えの、苔の生えたような家だった。人が出入りするのを見かけたこともなく、いつ覗《のぞ》いても、店のなかは仄《ほの》くらくしずまりかえっていて、チラとも人影が動かなかった。
 天気のいい日は、家の正面にまともに西陽《にしび》がさしかけ、反《そ》りかえった下見板《したみいた》がほこりっぽく木目を浮きあげる。雨の日は、看板のうしろの窓の鎧扉《よろいど》が、ひっそりとしずくを垂らしていた。
 キャラコさんは、土手《どて》三番町の独逸《ドイツ》語の先生のところへゆくので、一週間に二度ずつこの家の前を通る。
 飾窓のなかには、脚《あし》のとれた写字机《ビュウロオ》や、石版画の西洋の風景や、セエブル焼きの置時計、壊れた手風琴《てふうきん》、金|鍍金《メッキ》の枝燭台《えだしょくだい》、さまざまな壺や甕《かめ》、赤く錆びた三稜剣《エペ》。……そんなものが、窓掛けの透間から差しこむ光線の縞《しま》の中で、うっすらとほこりをかぶって押し並んでいる。
 いつか、なにげなくその中を覗《のぞ》いたのが癖になって、行き帰りのたびに、かならずいちどはこの飾窓《ショウ・ウインドウ》の前で足をとめる。
 どれもこれも、古び、傷つき、こんなものを買うひともあるまいと思われるようながらくたばかりだが、たとえば、脚のとれた写字机《ビュウロオ》にしろ、ホヤのない真鍮《しんちゅう》の置|洋灯《ランプ》にしろ、それぞれ、長いあいだの手ずれの跡や、時代のかげがはっきりと残っていて、それをながめていると、時の歩みをしずかにふりかえっているようで、なんともいえないほのかな気持になる。
 そればかりではない。セエブル焼きの置時計の細かい唐草模様のなかに隠されている貴婦人や農夫や、フランダースの飾り皿の和蘭《オランダ》の風景や、鯨に銛《もり》をうっている諾威《ノルウェー》の捕鯨船の図などに眼をよせて眺めると、今まで見落としていた小さな花々や、浮雲や、遠い風車や、波の間で泳いでいる魚などを、見るたびに、その中で、新しく発見する。
 キャラコさんは、夢中になって、つい、こんなふうに叫んでしまう。
「あら、あそこに、あんな花が隠れていたわ。……まあ、なんてかあいらしいこと!」
 キャラコさんは、この楽しみを自分ひとりだけのものにして、そっとしまっておいた。独逸語の先生のところへの往復《ゆきかえり》、この飾窓の前に立つ十五分ぐらいの時間が、長い間、キャラコさんのひそかな楽しみになっていた。
 ちょうど、ボクさんの両親の和解が成り立ってから十日ほど経った朝、学生鞄《ブーフザック》をブラブラさせながら、いつものように飾窓《ショウ・ウインドウ》のガラスに額をおっつけて中をのぞいてみると、この二週間ほど見なかったうちに、窓の中のようすがすこしばかり変わっているのに気がついた。
 写字机《ビュウロオ》と置《おき》戸棚の間にあった三稜剣《エペ》が壁の隅のほうへ寄り、前列にならんでいたジャヴァの土壺《つちつぼ》がすこしばかりうしろへひきさげられ、そのかわり、今までは横側しか見えなかった油絵が、正面に向きかえられている。
 それは、二十五号ほどの、一見、平凡な絵だった。
 うす暗い部屋の隅の、朽葉《くちは》色の長椅子に、白い薄紗《ダンテール》の服に朱鷺《とき》色のリボンの帯をしめた十七、八の少女が、靴の爪さきをそろえて、たいへん典雅なようすで掛けている。
 憂鬱《メランコリック》な、利口そうな顔だちで、左手を長椅子の肘に掛け、右手は、泡《あわ》のように盛りあがった広い裳裾《もすそ》のほうへすんなりと垂らしている。
 長椅子の向う側に、紫の天鵞絨《びろうど》の上衣に、濃い黄土色のズボンをはいた二十五、六の青年が、背もたせのうえに両膝をつき、おだやかな眼差しで少女の横顔を眺めている。
 長椅子の横に、粗石《あらいし》を積み上げた大きな壁煖炉《シュミネ》があり、飾棚《マントルピース》の上には、日暦《カレンダー》や、目覚し時計や、琥珀貝《こはくがい》でつくった帆前船《ほまえせん》などがのっている。明け放した硝子扉《ケースメント》の向うは、ゆるい起伏のある丘で、はるか遠いその稜線《りょうせん》のうえに、中世紀の城のような白い家がぽつんとひとつ立っている。
 部屋のなかは、濃い褐色《セピア》と黒っぽい藍色《あいいろ》のなかに沈んでいるのに、外景には三鞭酒《シャンパン》色の明るい光が氾濫している。夏の、あのはげしさはなく、しっとりと落ち着いた調子がある。窓のそばに、燃えるような雁来紅《はげいとう》があるので、秋の中ごろの午後の風景だということがわかる。
 一体にクラシックな画風で、日暦《カレンダー》の日づけや草の葉の細かい葉脈まで克明に描《か》いてあり、襞《ひだ》の深い丸い丘や城のような建物の背景のぐあいは、ちょうど、『モナ・リザ』の、あの幻想的な遠景とよく似ている。
 だいたい、こんなふうな絵である。格別、どこといって奇抜なところもなければ、目をそばだたせるようなところもない。狭い画面のなかに、いろいろなものが押し並んでいるので、むしろわずらわしくさえ感じられる。
 キャラコさんは、飾窓に鼻をおっつけながら、ゆっくりとその絵を鑑賞する。
 芸術的な価値はともかく、なにしろ、そんなふうに手のこんだ絵なので、飾り皿の微小画《ミニアチュール》を眺めるほどの面白さはたしかにある。それらと同じように、この絵のなかにも、たぶんいろいろなものが隠れているのに違いない。帰りに、またここへ寄って、ゆっくり探し出してやろうと思いながら飾窓《ショウ・ウインドウ》から離れて二三歩歩きだした。なにげなくそこで立ちどまって、もう一度、そのほうへ振りかえって、おもわず、
「おや!」
 と、眼を見はった。
 まったく、ふしぎなほどだった。ここから見ると、あの雑然とした絵が、とつぜん、生々《いきいき》とした実感をもちはじめた。人も、花も、丸い丘も、黄色い陽ざしも、みな、たとえようもないような完全な調和をたもちながら、しっとりとした深い奥ゆきの中で落ち着いている。額椽《がくぶち》の向うと、琥珀色の陽がさしている、もうひとつの別な世界があって、そこで、現実の生活とは関係のない、季節と日常がくりかえされているのではないかというような気がする。
 そればかりではない。この奇妙な、深い奥行きは、いったいなにから来る感じなのであろう。どういう不思議な遠近法によるのか、その気になれば、わけもなくスラスラと、その中へはいってゆけそうな気だった。
 キャラコさんは、魅《まど》わされたようになって、茫然とその絵を眺めていた。

     二
 この絵のおかげで、ドイツ語の先生のところへ行く往復《ゆきかえり》が、一層楽しいものになった。
 その絵の前に立つと、魔法の世界でも眺めているような、なんともいえぬ奇妙な感じがひき起こされ、催眠術にでもかけられたように、ぼんやりした眠気《ねむけ》に襲われる。
 それにしても、少女の横顔をながめている青年の眼差しの、なんと深いこと。春の海のようにゆったりとしていて、優しさと単純さに満ちている。二人の面《おも》ざしがよく似通っているから、たぶん、これは兄妹なのだろう。
 長椅子のうしろに立っている青年は、この絵をかいた画家の自画像なのに違いない。しっとりとしたこの部屋のなかで繰り返される兄と妹のやさしげな日常が、香気《こうき》のように画面のなかに漂っているのである。
 この画面にあらわれているのは、二人の生活のほんの一部分でしかないが、ただこれだけで、この二人が、互いにどんな信頼し合い、愛し合っているかよくわかる。この二つの顔のなかには、意地悪や、憎しみのかげなどは露ほどもなく、正直と、愛情と、親切だけが輝いているように見える。
 キャラコさんは、いい友達を沢山持っている。イヴォンヌさんにしろ、従姉妹《いとこ》の槇子《まきこ》や麻耶子《まやこ》にしろ、日本女学園のやんちゃな五人組。……また、叔父の秋作や立上《たてがみ》氏。いま、ちょっとした過失の贖罪《しょくざい》をしているあの気の弱い佐伯氏。丹沢山《たんざわやま》で会った篤実《とくじつ》な四人の学者たち。それから、小《ち》っちゃなボクさん。
 みな、心のやさしい、親切な人たちばかりだが、どうしてかしら、この絵の青年にたいするような、溺れるようなふしぎな愛情や憧憬《どうけい》をいちども感じたことはなかった。
「ほんとうに妙だわね。……いったい、どうしたというのかしら」
 ともかく、その絵の前に立つと、理窟なしに心が弾《はず》んで来てどうすることもできない。自分でも、すこし妙だと思うけれど、ひとりでに顔が笑い出して、
「こんにちは、ごきげんいかが?」
 と、われともなく、つぶやいてしまう。
「お静かでお羨《うらや》ましいわ。……いつだって雁来紅《はげいとう》は真っ紅だし、陽が照っているし、日暦《カレンダー》は、いつも、九日の日曜日だし……。うちあけたところ、あたしも、こんなふうに、ひっそりと暮らすのが理想なのよ。ほんとうに、なんていいんでしょう」
 奇妙なことには、キャラコさんが話しかけるのは、長椅子の後ろに立っている青年のほうにかぎるのである。
 おっとりと坐っている妹らしいひとには、まだ一度も言葉をかけたことがない。なんだか気ぶっせいで、嫌《いや》なのである。なるたけ、そのほうを見ないようにしている。
 家へ帰ってからも、この絵のことが心について離れない。あまり寝苦しいなどと思ったことのないキャラコさんなのだが、このごろはなんとなく寝つきがわるい。頭の下で、いくども熱い枕を廻す。ときどき、そっと溜息をついている自分に気がついてびっくりする。
「おやおや、なんだか、困ったことになったわ」
 三晩ほどそんなことをくりかえしたすえ、とうとうもて余して、イヴォンヌさんにそれをうちあけた。
 イヴォンヌさんは、栗鼠《りす》のような大きな眼をクルクルさせながら、
「それは、たいへんね。きっと、なにか、始まりかけているんだわ」
 キャラコさんは、すこし、赧《あか》い顔をした。
「ええ、あたしも、そう思うの。……あの絵のことを考えると、胸んところが、熱くなったり冷たくなったりして、なんだか妙に落ち着かなくて困るのよ」
「ふうん、熱くなるって、どんなふうなの」
「つまり、ドキドキするのよ。身体じゅうの血が、そこへ集まって来るようなの」
 イヴォンヌさんは、むずかしい顔をする。
「あまり、いい徴候じゃありませんな」
 キャラコさんは、聞こえない振りをした。
 イヴォンヌさんは、すかさない。
「ほら、ね。聞こえない振りなんかする。……いよいよもっていけないな。要するに、あなたは、あの絵の青年が好きになってしまったのよ」
 キャラコさんが、あわてて立て直す。
「イヴォンヌさん、あなたすこし過敏よ。……あたしが、あの絵にひきつけられるのは、そんな意味じゃないと思うわ」
「じゃ、いったいどうなの?」
 キャラコさんが、大きな声を、だす。
「あれはなんという流派《エコール》の絵か知らないけど、なんとなく、あたしの趣味にぴったりするのよ。あの絵のは、ひどく浪漫的《ロマンチック》
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