で、それに、いろいろ空想的なものがあるでしょう。そんなところにひきつけられているんだと思うわ」
イヴォンヌさんは、頑固に首を振る。
「信じられないわね。あなたがあの絵にひきつけられているのは、そんな高尚なことじゃなくて、あの絵の中の生活を愛しているのよ。あたしには、それが、はっきりわかるの」
キャラコさんは、聞きとれないような声を、だす。
「よく、わからないけど……」
イヴォンヌさんは、ニヤリと笑う。
「わかるようにいってあげましょうか。……あなたはね、絵のなかのお嬢さんのように、あの青年にあんな深い眼付きで凝視《みつ》められたいと思っているんだわ。これが、あの絵があなたをうっとりさせるゆえんなのよ。……どう? おわかりになった?」
キャラコさんは、横を向いて、またきこえないふりをした。
なんだか、ぼんやりとわかりかけてきた。もっとも、キャラコさん自身も、心のどこかで薄々《うすうす》感づいていたのである。
ただ、油絵の中の青年が好きになったなどというのはあまりにも奇抜すぎるので、キャラコさんの心が、それを承認することを拒みつづけていたのである。
しかし、それも、よく考えてみると、かくべつ、不思議だというようなことでもない。じぶんは、この青年に、いつかいちど逢ったことがあって、その時、強い印象を受けたまま忘れていたが、偶然、飾窓の絵の中でその青年に再会して、古い記憶が急に甦《よみがえ》ったのだと考えられないこともない。
そういえば、これとよく似た配景を、いつか一度見たような記憶がある。雁来紅《はげいとう》の紅さも、夕陽の色も、おどんだような部屋の暗さも、このままのようすで、心のどこかに残っている。また飾棚《マントル・ピース》の上の琥珀貝の帆前船にも、確かに触《ふ》れた覚えがある。薄い、冷《ひや》りとして貝細工の感触が今でも指先にあるような気がする。
最初、あの絵を見たとき、その中へスルスルと入ってゆけそうに思ったのは、絵の表現によることではなくて、それが、むかし、非常に親しかった風景だったからかも知れない。
しかし、ひょっとすると、それは、夢のなかで見た景色だったようにも思われる。
遠い丘の上で、夕陽を浴びて立っている城のような白い建物や、陰影もなく、碧一色《あおひといろ》に塗りつぶされた空のようすなどは、なにか、とりとめなくて、夢の中の景色によく似ている。夢だったのか、事実だったのか、その辺のところが、どうも、はっきりしない。
また、それが事実だったとしても、そこで、どんなことが起きたのか、この青年をどんなふうに好きだったのか、まるっきり記憶に残っていないのである。
それにしても、イヴォンヌさんは、確かにいい当てた。
どうかすると、どうしても飾窓の前から離れられないような気がすることがある。左内坂の近くへくると、ひどく胸が躍《おど》って、思うように歩かれない。心では、飛んで行きたいほどに思うのだが、足のほうがいうことをきかない。
「おやおや、たいへんだ」
なんとかして笑ってみようとする。ところが、思うように、うまく笑えないのである。
じっさい、こんな感情に襲われたのは、生まれてから、これが最初の経験だった。
キャラコさんは、寝台のうえにそっと身体を起こす。窓に月の光が射し、白膠木《ぬるで》の梢《こずえ》が墨絵のように揺《ゆ》れている。
キャラコさんは、溜息をつく。
「これはたしかに厄介な感情ね。こんなものがあたしのところまで押し寄せて来ようとは思わなかったわ」
閉口して、両手でゴシャゴシャと髪を掻《か》き廻しながら、長い間なにか考えていた。そのうちに、決心がついたように威勢よく寝台から飛び降りると、卓上電灯《スタンド》をつけて手紙を書きだした。
イヴォンヌさん。あたしは、たしかに、あの油絵の青年に心をひかれています。
あたしがこんな感情をもった以上、放って置くわけにはゆきませんから、あすの朝、あのひとのところへ行って、きっぱりとカタをつけて来るつもりなの。どうぞ、賛成して、ちょうだい。あのひとが、あたしを嫌いだったらしようがないけど、もし、好いてくれたら万歳ね!
この結果は、あすの晩、電話でお知らせしますわ。
三
次の日の正午《ひる》ごろ、キャラコさんは、雪ヶ谷から石川台へ抜ける切通しを歩いていた。
両側は雑木林をのせた低い岡で、そこで漆《うるし》の葉が薄紅く染っていた。
気が向くと、底の平ったい靴をはいて、ひとりで気ままにあちらこちらとあるきまわるので、キャラコさんは武蔵野の岡や小径をよく知っている。
油絵の遠景のような丸味のある台地は、武蔵野の西南のほうに多いのだから、根気よくこの辺を歩き廻っているうちに、それらしいのに行き当るだろうとかんがえて、あてもなしにのんびりと歩きつづけていた。
はっきりとはわからないが、心をひそませてじっくりと記憶をたどると、雁来紅《はげいとう》の家へ行く道筋が、おぼろげに心に浮んでくる。
赤土の崖道をしばらく歩いて行くと、そのうちに、小さな流れに行きあたる。……その土橋をわたると、枳殻《からたち》の長い垣根が始まって、道がすこし登りになりながら、雑木林の中へ入り込んで行く。……雑木林を出ると、急に眼の前がひらけ、ゆるい丘の中腹ほどのところにその家がある……。
キャラコさんは、切通しの途中に立ちどまって、右左を見廻す。……どうも、この道もいちど通ったことがあるような気がする。雑木林のようすも、赤土の崖のいろも、ぼんやりと心の網膜にしみついている。
「……もしか、この道だとすると、ここを降り切ると、小川の小さな土橋のそばへ出るはずなんだけど……」
十分ほど歩くと、道が大きくカーヴして、とつぜん、向うに小川が見え出した。
「川がある!」
なぜか、不思議な気持も、恐ろしい感じも起きない。
キャラコさんは、頓着しないでズンズン歩いて行った。この道にさえついて行けば、間もなく油絵の中の家に着くはずだった。
……そして、あの青年が絵のままのようすでそこに住んでいる……。キャラコさんは、それを少しも疑わない。境遇としてはずいぶん奇抜なのだが、それが一向|訝《いぶ》かしく思わないのが、むしろ不思議なくらいである。
ただ、現実と非現実の境目ぐらいのところを歩いているような、妙にたよりのない気持がする。ひょっとすると、油絵の風景の中へ紛れ込んで来たのではなかろうか。自分がいま歩いているのは現実の世界ではなくて、額椽の中の幻想の世界なのではないかといったような、とりとめのない不安を感じる。
ところで、土橋を渡ると、果して、枳殻《からたち》の垣根が始まった。
それから、雑木林を抜ける。……真向いの、なだらかな丘の斜面に、バンガロオふうの建物が側面に夕陽を浴びて、一種、寂然《せきぜん》たるようすで立っていた。
キャラコさんは、満足そうな声を、だす。
「ほら、ちゃんとあったわ!」
心がはずんで、唄でもうたい出したいような気持になってきた。早く門のところまで行き着きたくなって、口を結んで、せっせと歩きだす。
下で見たよりも、しっかりした建物で、蔦《つた》のからんだ雅致のある石門がついている。
ところが、どうしたわけか、この石の門にはすこしも見覚えがない。門のそばから、灌木の植込みについた砂利の小径が、ひっそりと玄関のほうへ続いている。……この小径も、すこしも記憶に残っていなかった。
キャラコさんは、すこし怖気《おじけ》がついてきた。自分が、いま、やりかけていることは、途方もなく突飛《とっぴ》なことのように思われだして来た。
キャラコさんは、気持を落ちつけるつもりで深呼吸してみる。案外、効果があった。なにはともあれ、わざわざここまでやって来て、こんなことくらいにへこたれて、このままひき返すわけにはゆかない。
キャラコさんは、玄関のところまで歩いて行って、呼鈴を押した。ベルが思いがけなく近いところでえらい音を立てて鳴ったので、びっくりして逃げ足になった。元気を出しているつもりなのだけれど、なんとなく魂がしっかりとすわらない。勢い、自信のない顔つきになる。負けまいと思って、例の、すこし大きすぎる口を結んで頑張りつづける。
玄関の扉《と》が、内側から無造作に引きあけられて、よく釣り合いのとれた、背《せい》の高い、三十五、六の青年が屈託のないようすで現われて来た。
油絵の青年だった!
絵のなかの顔とすこしも違っていない。落ち着いた深いまなざしも、きっぱりとした顎の線も、翳《かげ》のない広い額も、なにもかもそのままで、誇張していうなら、絵の中の青年が、容積《ディマンシオン》を変えてここへ出て来たかと思われたほどだった。ただ違うところは、顎に青髭《あおひげ》があることと、天鵞絨《びろうど》の黒い上衣のかわりに、絵具だらけの麻《あさ》の仕事着《ブルーズ》を着ているところだけだった。
そのひとは、ほのかに眼もとを微笑《ほほえ》ませて、キャラコさんの顔を見かえしている。
キャラコさんは、さっきからぼんやりとそのひとの顔を見上げていたのだった。ハッと気がついて、思わず真っ赤になってしまった。
そのひとは、格別不思議そうな顔もしないで、扉口に立ったままになっている。
キャラコさんは、へどもどしながらお辞儀をすると、死んだ気になって、切り出した。
「……突然ですが、すこし、お尋《たず》ねしたいことがあって、それでおうかがいしたのですけど……」
そのひとは、ああ、と、鷹揚《おうよう》な返事をしただけで、のどかに笑っている。
どんな冷たい心でも溶かしてしまうような、ひろい、おおまかな微笑である。
キャラコさんは、やれやれ、と思う。ようやく、楽に口がきけるようになる。
「あなたは、もしかして、あたくしを知っていらっしゃるのではないでしょうか」
そのひとは、元気のいい声で笑い出した。
「どうして、知らない訳があるもんですか。……君はね、むかし、僕をひどく手こずらしたことがあるんだよ。……覚ていないかも知れないが……」
よく響く声でこういうと、無造作にキャラコさんの手をとって、
「それにしても、ずいぶん、綺麗になったもんだ! それに、立派な顔をしている」
キャラコさんは、楽しすぎて、すこし茫《ぼう》となる。そのひとの掌は大きく温かくて、その手にとられていると、なんともいえない頼母《たのも》しさを感じる。
いいたいことが、あれもこれもと沢山あって、なにからいい出していいかわからない。大あわてに狼狽《あわ》てたすえ、わけのわからないことを口走る。
「あなた、あたしがどうしてここへ来たか、ごぞんじ?」
そのひとは、また笑った。
「知りませんね」
キャラコさんは、ふうん、と鼻を鳴らす。
西洋骨董店の飾窓で絵を見てから、ここへ辿《たど》りつくまでの、苦心や悩みをつぶさに訴えたいと思うのだが、どうもうまくいえそうもない。断念《あきら》めて、こんなふうにいう。
「あたし、これでも、ちょっと敏感なところがありますの。自分の記憶だけで、ここまでやって来ましたのよ。……むかし、一度ここへ来たことがあったってことは、あたしも薄々知っていましたの。でも、それがいつだったのか、ここで何をしたのか、まるっきり記憶に残っていませんの」
そのひとは、玄関の石段にしゃがみながら、
「それは、とても大変だったんだよ。……もう、何年になるか、よく覚えていないけど、君が叔父さんというひとと、この辺へ遠足に来て、とつぜん、えらい熱を出して、わけがわからなくなってしまったんだ。……なにげなく、アトリエの窓から見おろすと、君の叔父さんが、あそこの木槿《ぼけ》のあたりで、君をかかかえてうろうろしている。……そのころ、この辺には、僕の家だけしかなかったもんだから、かまわないから、って、そういってね、僕ンところへ入ってもらって、医者が来るまで、井戸水を汲《く》んじゃ君の頭を冷やしていたんだ。……叔父さんというひとは医者を迎えに行ったきりなかなか帰って来ない
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