キャラコさん
月光曲
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)無地《むじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外国には|植物嫌い《デンドロフオーブ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]
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一
……それは、三十四五の、たいへんおおまかな感じの夫人で、大きな蘭の花の模様のついたタフタを和服に仕立て、黄土色の無地《むじ》の帯を胸さがりにしめているといったふうなかたです。
勇夫《いさお》兄さまは、あれは、黄疸《おうだん》色というんだよ、と悪口をいいましたが、あたしは、賛成しませんでした。
眼も、鼻も、口も、りっぱで、大きくて、ゴヤの絵にある西班牙《スペイン》の踊り子のような顔をしています。皓《しろ》い歯で真っ赤な花を咬《か》んでいる、あんな感じ。……窓からチラリと見ただけですから、これ以上くわしい印象は申しあげられませんわ。このゴヤ夫人は、なんでも四五年前に、有名な離婚裁判を起こしたことのあるピアニストなんですって。
ところで、この新しい隣人は、たいへんに横暴なの。こういっていけなければ、たいへんに我ままです。越してきてからまだ十日にもならないのに、葉書で、(それが、いつも速達なの!)いろいろな苦情を申し込んで来ます。
最初は、ブリキを引っかくような音が耳についてしようがないからなんとかしてくれ、と書いてよこしました。
ブリキを引っかくような音! ……お父さまが宮内《くない》省からいただいた、あの愛想のいい、『孔雀氏《ムッシュウ・ド・パン》』の啼《なき》声のことなのです。(ほんとうに、失敬ね!)
でも、ああいうお父さまのことですから、葉書をごらんになると、その日のうちに、朝吉《あさきち》に持たせて木戸さまへ返しておしまいになりました。
お兄さま。
あなたが、戦地から帰っていらしても、あんなに可愛がっていらした孔雀氏《くじゃくし》を、もう、この庭でごらんになることはできないのですよ。
これですむのかと思ったら、こんどは厩《うまや》です。蠅が来てたまらないから、厩を田舎へでも移していただきたい。
ブラヴォ! すこし、お驚きになって? ところで、吃驚《びっくり》されるのは、まだ早いのですよ。
きのうの朝、あたしがお部屋で本を読んでいますと、花壇のほうで草でも苅《か》るような音がしますので、見てみますと、お父さまが朝吉と二人で、花壇の花を鎌《かま》で苅っていらっしゃるのです。あんなにも丹精なすって、五年目にようやく花を咲かせた、あの竜舌蘭《アローエス》を!
こんなことって、あるもんでしょうか!
お夕食の時、あたし、思い切っておたずねして見ましたの。
すると、お父さまは、
「お隣りのかたが、塀の上からチラチラ花がのぞいて気障《きざわ》りだといわれるんで、それで、苅ってしまったのだ」
と、おっしゃいますの。
隆男《たかお》兄さまも、勇夫《いさお》兄さまも、晶子《あきこ》姉さまも、鎮子《しずこ》姉さまも、(もちろん、あたしもよ!)呆気《あっけ》にとられて、へえ、と顔を見合わせるばかりでした。
お父さまのなすったことですから、だれも異議は唱えませんでしたが、勇夫兄さまだけは、黙っていたくなかったと見えて、
「外国には|植物嫌い《デンドロフオーブ》というマニアがいるそうだが、お隣りも大体それに近いんだな」
と、いいました。隆男兄さまが、
「くだらん、放っておけ」
と、いわれなかったら、もっとひどいことをいい出しかねないようなようすでしたの。
お兄さまたちはお兄さまたちとして、あたしにはあたしのやり方ってのがあるわけなの。隆男兄さまのご意見には関係なく、あたしは、これからお隣りの傍若《ぼうじゃく》夫人(あたしの洒落も捨てたもんでないでしょう?)のところへ出かけて行って、お互いに住みよくするために、どういう連帯心が必要か、どの程度まで、個人の自由を見捨てなければならないものか、その辺のところをよくうかがってくるつもりなのです。(たしかに、あたしは、すこし腹を立てています!)
この始末については、今晩またくわしく御報告いたしますわ。
二
英吉利《イギリス》ふうの破風《はふ》のついた、この古い洋館は、あなたのお気にいりの建物でした。でも、もう、久しい間|空屋《あきや》になっていましたので、敷石のあいだから雑草が萌《も》えだし、庭の花圃も荒れほうだいに荒れて、見るかげもないようになっていました。
いくども呼鈴《よびりん》をおしましたが、誰れも扉《ドア》を開けにきません。二階のほうを見あげてみますと、どの窓も、しっかりと鎧扉《よろいど》がとざされ、廃屋《はいおく》のように森閑としずまりかえっています。
しばらくポーチにたたずんでいましたが、いつまでたっても、なんの音沙汰もないので、留守なのだろうと思って、あきらめて帰りかけると、うしろで、カチッと掛け金がはずれる音がして、二寸ばかりあけた扉《ドア》の隙間から、小鹿のような臆病そうな黒い大きな眼が、そっとのぞきだしました。
皮膚の薄い、すき透るように色の白い、上品な面《おも》ざしをした九つばかりの少年で、半ズボンの裾から、スラリとした美しい脛《すね》を見せています。
あたしが、おどけた顔で失敬をして見せますと、少年はつり込まれてニッコリと笑いましたが、すぐまた、悲しげにさえ見える真面目な顔つきになって、じっとあたしを瞶めています。
もう一度、笑わせて見たくなって、両手を耳の上にあててヒョコヒョコうごかしながら『兎さん』をやりますと、少年は、だまってあたしの道化を眺めていましたが、自分もこんなことをしていいのかといったような臆病なようすで、そろそろと両手を耳のところへ持って行って『兎さん』の真似をしました。
あたしが、のんきな声で、
「お母さま、おるす?」
と、たずねますと、少年は、扉口にもたれて、靴の踵《かかと》でコツンコツンと扉《ドア》を蹴りながら、
「ママ、一昨日《おととい》からおりません。ボク、ひとりなの」
「おやおや、ねえやさんもいないの」
「誰れもおりませんの。ボク、ひとり」
そういうと、急に顔を伏せて、泣くまいとでもするように、ギュッと唇を噛むんです。
扉《ドア》の隙間から、だだっぴろい、ガランとした玄関の間《ま》と、彫刻《ほり》のある物々《ものもの》しい親柱《おやばしら》がついた大きな階段が見えます。こんな広い邸《やしき》に、こんな小さな子供をひとり放っておくというのは、いったいどうしたことなのだろうと思って、呆気《あっけ》にとられて少年の顔を眺めていますと、少年は、眼を伏せたまま、虫の鳴くような声で、
「あなた、おいそがしいのでしょうか」
と、あたしに、たずねますの。あまり大人くさいいいかただったので、あたしは可笑《おか》しくなって、思わずクスリと笑ってしまいました。
「いいえ、いそがしいってほどでもありませんわ。……どうして? お坊っちゃん」
すると、少年は、女の子のような、小さい美しい手をおずおずとあたしの腕に搦《から》ませて、縋《すが》りつくような眼つきで見あげながら、
「……おいそがしく……ありませんでしたら、……どうぞ、遊んでいらして、ちょうだい。……でも、……あなた、ボクのような子供と遊ぶの、つまらないかしら」
「まるっきり、反対よ、お坊っちゃん。……でも、だまってお邪魔したりして、お母さまに、叱られはしないかしら」
少年は、腕にかけた手に、せい一杯に力をいれて、
「だいじょうぶ! ママは『リラ・ブランさん』といっしょですから、あすでなければ帰って来ないの。……リラ・ブランさんというのはね、ママのお友達で、ヴァイオリンを奏くひとなの。……お酒に酔うと、いつも、『リラ・ブラン』という歌をうたうの。そして、お前なんか見たくない。あっちへ行け、小僧! っていうの。……パパも、むかし、そうだったけど……」
少年は、熱にうかされたように、口をおかずにしゃべりつづけながら、グイグイと手をひいてピアノが置いてある大きな部屋につれ込むと、あたしを長椅子の上に押しつけ、じぶんもチョコンと並んで坐って、
「ぼく、ほんとうに、うれしいの!……ボク、これで、まる三日もひとりきりでしたから」
おどろいて、あたしが、たずねました。
「ひとり、って、女中《ねえ》やさんもいないの?」
「ええ、誰れもいませんの。ボクひとり。……ママは女中《ねえ》やを置くのきらいなんです」
「ねえやさんもいないとしたら、あなた、御飯なんか、どうなさるの」
少年は、なんだそんなこと、というふうに、
「ママが、麺麭《パン》を置いてってくれますから、だいじょうぶ。……でも、ママ、時々ボクのことを忘れて、二日も三日も帰って来ないことがありますの。すると、ボク、とても困るの、お腹《なか》がすいて。……でも、もう、馴れているから平気です。そんな時は、動かないで、じっとしているの。こんなふうに、息をつめて……」
なるほど! たいしたもんですわね!
こういうのが欧羅巴《ヨーロッパ》ふうなんだと、自慢らしく公言してはばからないという、傍若夫人の奇抜な利己説《エゴイズム》は、世間では有名すぎて、もう古典になりかけているのだそうですが、なるほど、評判だけのことはあるようですわ! 子供には黴《かび》のはえた麺麭《パン》をあてがっておいて、じぶんは毎日遊び狂ってあるくというのは、たしかに、趣味のいいことにちがいありません。
あたしは、胸の底から憤《いきどお》りの情がこみあげて来て、じっと坐っていられないような気持になって、思わず長椅子から立ちあがろうとしますと、少年は、ビクッと身体を顫《ふる》わせて、
「もう、お帰りになりますの?……ボクの話、たいくつなのね?……ボク、面白い話をしますから、もうすこしいてちょうだい。きっと、面白い話をしますから……」
急いで話を探し出そうと、あわてふためきながら、しどろもどろな声で、
「……あのね、……それは、ええと、……油絵の帆前船《ほまえせん》なんですけど、絵かきが、ボートを描《か》くことを忘れたもんだから、船が港へはいるたびに、船長さんは、陸《おか》まで泳がなくてはならないというの。……なにしろ、波だって碌《ろく》に描《か》けていないんだから、なかなか楽じゃないって……。どうこの話、面白い?」
あたしの鼻の奥を、なにか、えがらっぽいものがツンと刺します。あたしは、あわてて手を拍《う》ちながら、せい一杯の笑い声をあげました。
「ほんとに、楽じゃない、そんなふうなら! 陸《おか》へあがると、船長さんは絵具だらけになっているにちがいないわね、まあ、なんて面白いんでしょう!」
少年は、大きなためいきをついて、
「よかった、ボク。……では、まだ、遊んでいってくれますね」
「ええ、いつまででも!」
少年は、うれしそうにコックリすると、急に、物々《ものもの》しいほどの真面目な顔つきになって、
「お嬢さん、ボク、お願いがあるんですけど」
「ええ、どんなこと?」
「ボクに、お菓子のつくりかたを教えて、ちょうだい。ボク、絵だけはたくさん切り抜いてあるんですけど、どんなふうにしてこしらえるんだかわからないの」
といいながら、ポケットから小さな切抜帳《スクラップ・ブック》を取りだしてひろげて見せました。
切抜帳《きりぬきちょう》の中には、料理の本から切り抜いた青や赤や黄いろや白の、色とりどりに彩色された、原色版の美しいお菓子の絵がいくつもいくつも貼《は》りつけてありました。
少年は、うっとりと、それを眺めながら、
「ボク、じぶんで、こんなお菓子がつくれたらどんなにいいかと思いますの。時間がつぶせますし、それに、衛生的ですものね。……ボク、いちどお砂糖とメリケン粉を交ぜて喰べて見たの。でもどうしても、お
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