菓子のようではないの」
あたしは、この少年がかわいそうでたまらなくなって、やるせなくなって、思わず、大きな声で怒鳴ってしまいました。
「そんなことなら、わけはありませんわ、お坊ちゃん!」
「あなた、ごじぶんで、お菓子、おつくりになれますの?」
「ええ、どんなものでも!……なにがいいかしら?」
「ボクが、じぶんでつくれるような、やさしくて、美味《おい》しいもの」
「では、捏粉菓子《ブリオーシュ》がいいわ」
少年は、椅子から躍《おど》りあがって、
「あの、捏粉菓子《ブリオーシュ》……、あの、ブリオーシュ……。こんなふうになって、…… 上にザラメのかかった?」
「ええ、そうよ!」
「ああ、思い出した! パパがいたとき、ボク、一度食べたことがある!」
「乾葡萄《ほしぶどう》もいれましょうね」
「ああ、乾葡萄まで!」
「よろしかったら、胡桃《くるみ》もいれましょう」
「それ、ボク、食べるのね!」
「ええ、そうよ、お坊ちゃん。あなたが召しあがるのよ」
「ああ、ボク、ボク……」
少年は、もう、どうしていいかわからないといったふうに、長椅子の上をコロコロと転げ廻るのです。
「さあ、すぐ始めましょう。お料理場へ連れて行ってちょうだい。それから、あなたもお手伝いなさいね。あとで、ごじぶんでつくれるように」
料理場は長い廊下の端にありました。ひと目見ただけでこの邸《やしき》で、どんな放埓《ほうらつ》な生活が送られていたかわかります。酒瓶や鑵詰の空鑵がいたるところに投げ出されてあって、開け放しになった冷蔵庫の中で、牛乳が腐って、ひどい臭《にお》いをたてていました。
あたしは、テンピの中と調理台の上を手早く掃除すると、少年に白い割烹着《かっぽうぎ》を着せ、ハンカチでコックさんの帽子をつくって冠《かぶ》せてやりました。少年は、夢中になって、広い料理場の中を酔ったようによろめき歩くのでした。
あたしが、厳《いかめ》しい声で命令します。
「コックさん、メリケン粉をください」
すると、少年は、えッちらおッちら食器棚へよじのぼってメリケン粉の鑵をとりおろし、勿体《もったい》ぶったようすで、それをあたしに渡します。
「はい、メリケン粉」
「その次は、お砂糖」
「はい、これがお砂糖」
「牛酪《バタ》を少々」
「はい、牛酪《バタ》。……牛酪《バタ》は少々古いです。かまいませんねえ」
「……がまんしましょう。おつぎは、卵です」
どうしたのか、返事がありません。ふり向いて見ますと、少年は、向うむきになって、壁に額をおっつけて、じっと立っています。
「おやおや、どうしたんですの、コックさん」
肩へ両手をかけて、こちらへ振り向けて見ますと、少年は、長い睫《まつげ》に涙をいっぱいため、唇を顫《ふる》わせて、泣くまいと、いっしんにこらえながら、
「……卵、ありませんの。……お菓子、できませんね。……ボク、もう、いいの、あきらめました」
あたしは大きな声で笑い出しました。……おやおや! ところで、どうやらあたしも泣いているようなんです。
「お坊ちゃん、だいじょうぶよ。家《うち》へ行って取って来ますわ。なんでもないのよ、そんなこと。……さあ、笑って、ちょうだい」
人差し指の先で、涙の玉をすくってやって、あたしが、そういいますと、少年は、急に元気になって、
「ああ、ボク、助かった。……じゃ、すぐ帰って来てね。どうぞ、一分で帰って来て、ちょうだい」
「すぐ帰ってきますわ。……きっちり、一分でね!」
料理場を飛び出すと、まるで巫女《ウイッチ》のように宙を飛んで家へ駆けてゆき、お台所から鶏卵と水飴《みずあめ》と乾杏子《ほしあんず》をひっ攫《さら》って、えらい勢いで駆け戻って来ました。
粉を捏《こ》ねて、その中へ乾杏子を押し込み、焼き皿に牛酪《バタ》を塗って、キチンとお菓子を並べ、それから、厳《おごそ》かな手つきでそれをテンピの中へいれました。
テンピの扉《と》が閉《し》まろうとすると、少年は、感きわまって、
「捏粉菓子《ブリオーシュ》さん!」
と、大きな声で、別れを告げるのでした。
ジュウジュウと牛酪《バタ》の焦《こ》げる音がきこえ、ふんわりした甘い匂いが、部屋の中に漂いはじめますと、少年は、我慢しきれないように喉を鳴らしながら、いくども水を飲みにゆきました。
ところで、もう、間もなくできあがるというころになって、とつぜん、門のところで自動車の停まるような音がしました。
少年は、ビクッとして、きき耳を立てていましたが、転がるように窓のところへ行って戸外《そと》を眺めると、真っ青な顔をして戻って来て、息もたえだえに、喘《あえ》ぐのです。
「ママ、……ママが帰って来た!……早く、ここに隠れて、ください」
お兄さまも、そうお考えになるでしょう? あたしには、べつに隠れなければならないようなわけはありません。あたしはきょう傍若夫人に逢いに来たのですから、帰ってきたというなら、ちょうど幸いです。ボクさんのことも孔雀《くじゃく》のことも、なにもかも、ひとまとめにして、思いっきりいってやらなければおさまらないような気持になってきました。あたしとしては、たいへんな激昂《げきこう》ぶりでしたの。
それで、あたしは、そういいました。
「あたしたち、べつに悪いことをしていたわけではないでしょう。あたくしから、よくお話しますわ」
少年は、泣き出しそうな顔になって、
「いいえ、いけないの。あなたは何もごぞんじないんです。そんなことをしたら、あとで、ボクほんとに困るんですから。……ほらほら、こっちへやってくる……」
少年は、気がちがったようになって、すぐそばの小部屋《こべや》へあたしをむりやり押し込むようにしながら、
「どんなことがあっても、ボクを助けに来ないって、約束してちょうだい」
腹が立ってたまらないけど、しょうことなしに、渋々、こたえました。
「ええ、お約束してよ。つらいけど、あなたのおっしゃるようにしますわ、お坊ちゃん」
「つらくとも、どうか、そうしてね。……ボク、うまくママを向うへ連れてゆきますから、そうしたら、あの勝手口から逃げていって、ちょうだい。ボク、あすの朝早く、そっと塀《へい》のところへゆきますから……」
あたしがその小部屋の扉《と》をしめると、ほとんど同時に、料理場の扉《と》があきました。ほんとうに、危ないところだったのよ。
息をつめながら、暗闇の中で耳をすましていますと、こんな会話がきこえます。
――ボクちゃん、ここで何してた?
――ボク、遊んでた。
――おや、たいへん、いい匂いがすること!
――ママ、ボクお菓子をつくってたの。ママをびっくりさせてあげようと思って。
――これは、捏粉菓子《ブリオーシュ》じゃありませんか。これ、あなたがこしらえたの?
――ええ、ママ。
――嘘おっしゃい。……誰れが来たの?……この家へ誰れもいれてはならないはずだったでしょう。もう、忘れたの?
――つねっちゃ、痛い!……ああ、そんなにひどくすると痛いから……。
――早くおっしゃいね。
――角《かど》のお菓子屋さんが来たの。もう店をやめますから、お別れにお菓子をつくってあげましょう、って。……嘘をいって、ごめんなさい。……『誓約』をしますから、ゆるしてちょうだい。ああ、腕が、ちぎれる……。
――ほんとうですね。
――ええ、ほんとうです。
――そんなら、『誓約』をしたらゆるしてあげます。……やってごらんなさい。
――「ボク、ママ、だいすきです。パパはいけないひとで、ボクを……」
――立って『誓約』するひとがありますか、ちゃんと、床の上へ膝をおつきなさい。
――はい、ママ。……「いけないひとで、ボク、パパのところへ一生帰りません。もし、パパが来たら……」
――どうしたの、そのあとは?
――「ボク、パパ嫌いだと大きな声で、……いって……いってやります」
――忘れないようになさい。パパが来たら、きっと、そういってやるのよ、いいわね。
――ええ、きっといいます。……ママ、ボク、捏粉菓子《ブリオーシュ》をひとついただいてもいいかしら?
――いけません。あなたには、ちゃんと黒パンが買ってあります。
――では、半分だけ……。
――うるさくいうと、いつかのように、口の中へお雑布を詰め込んであげてよ。いいから、もう、こっちへいらっしゃい。
お兄さま。あなた、あたしをほめてくだすっていいはずよ。あたしは、我慢して、とうとう飛び出さなかったのですからね。そのかわり、夢中になって、じぶんの腕をつねっていたので、そこんところに大きな青痣《あおあざ》ができましたわ。
二人が料理場を出て行きますと、あたしは、泥棒猫のように、地べたに腹を擦《す》りながら勝手口から逃げ出した。こんなやるせない思いをしたことがありませんわ。あたしは、半《はん》べそをかいていました。
三
お隣り寄りの、小瓦葺《こがわらぶき》の土塀の裾に、大きな壊《く》い穴があいているでしょう。下草《したくさ》が、まだ露でしっとりと濡れているころ、あたしは、毎朝、そこでボクさんを待っていますの。ほんの、三十分ほどお話をするために。
ほの暗いうちに起きだして、そっとお台所へおりて行って、しきりにゴトゴトやります。ゆうべのうちに下拵《したごしら》えをして置いた茹卵《ゆでたまご》やハムでサンドイッチをこしらえたり、蜜柑水《みかんすい》をつくったりなかなかいそがしいのです。
それができ上ると、ナプキンに包んで膝の上に置き、お台所の椅子に腰をかけて、時間になるのをじっと待っています。
窓がほの白くなり、小鳥がチチと鳴きだす。やっと四時半。まだ、三十分もあります。この三十分が経つのを、あたしは、痩せるような思いで待っています。……
お兄さま。これは、鎮子姉さまからうかがったのですけど、世間では、たしかに、利江子夫人のほうがすこしひどすぎるといっているそうです。
ボクさんのお父さまは、学者肌の緻密な頭を持ったひとで、光学の精密器械をつくる大きな製作所を持っていらっしゃるんですって。
鎮子姉さまのいい方を借りますと、やはり、機縁とでもいうのでしょうか。音楽などで、じぶんの頭をうっとりさせる必要のない久世《くぜ》氏が、お友達に誘われて偶然利江子さんの独奏会《レシタル》へゆき、いっぺんで利江子さんを好きになってしまったのです。誘ったほうが、飽気《あっけ》にとられる始末だったんですって。
ところが、もうそのころ、利江子さんの身辺によくない噂が霧のように立ち迷っていたので、そのお友達は責任を感じて、加勢を募《つの》ってできるだけ反対しましたが、久世氏はどうしてもききいれない。このひとがと思われるような熱狂のしかたで、花束を持って、毎日のように利江子さんを訪問して、二ヵ月足らずでとうとう攻め落としてしまったのです。
波動力学の計算ならば、だれよりも正確にやってのけるという久世氏なんですが、家庭設計の基礎算出のほうはあまりお上手ではなかったと見えます。
それこそ、ちょうど火と水ほども性格のちがうご夫婦だったのです。久世氏のほうは、すこし一徹なところのある、ちょっと例のないほど几帳面な、腹の底からの技術家《メカニシアン》で、朝の珈琲《コオフイ》から夜のパイプの時間まで、紙型にとったようにキチンと割り切ってあるというふうなのに、利江子夫人のほうは、時間観念欠乏症《インパンクチュアリスト》の代表のような方で、自分の下着の始末さえ満足にできないようなとりとめのない性質なのです。
ひる近くまで、ぐったりと寝台の中に沈んでいて、夕方になると、急に生々《いきいき》して男のお友達を大勢誘って遊びに出かける。「毎晩、どこかで音楽会があって、むかしのつきあいで、どうにも断わり切れないのよ」というのですって。
久世氏は事務所から帰ると、女中の給仕で、ひとりで味気のない食事をなさらなければなりません。でも、沈着なかたですし、その時、もうボクさんも生まれていたので、こんな忌々《いまいま
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