て、梯子《はしご》をかけて土塀の上にのぼって見ました。
 真向いの張り出しになったサン・ルームの窓を二十分ほども瞶めていますと、そのうちに窓の中にチラと白い顔がのぞきました。
 ボクさんでした。
 あたしは、夢中になって、せい一杯に手をあげて、小さな声で叫びました。
「ボクさん!」
 ボクさんは、窓に顔をあてて、じっとこちらを眺めながら、悲しそうに首をふりました。
(いったい、何が起こったというのかしら)
 思いつくかぎりのことを、あれこれと忙《せわ》しく考えめぐらして見ましたが、しょせん、何の足しになるものでもありません。
 ボクさんは、手真似で、しきりになにかやっていますが、あたしには、どうしてもその意味がわかりません。ボクさんは、困ったような顔をして、考え込んでいましたが、なにを思いついたのか、ツイと窓のそばを離れると、ヴァイオリンを持ち出してきて、ゆるい調子の曲を奏き出しました。
 きいていると、それは、ベートーヴェンの『|月光の曲《ムウンライト・ソナタ》』の緩徐調《アダジオ》の旋律《メロディ》なんです。……ようやくわかりました。ボクさんは、こういっているのです。
「……今晩、
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