めんなさい。……『誓約』をしますから、ゆるしてちょうだい。ああ、腕が、ちぎれる……。
 ――ほんとうですね。
 ――ええ、ほんとうです。
 ――そんなら、『誓約』をしたらゆるしてあげます。……やってごらんなさい。
 ――「ボク、ママ、だいすきです。パパはいけないひとで、ボクを……」
 ――立って『誓約』するひとがありますか、ちゃんと、床の上へ膝をおつきなさい。
 ――はい、ママ。……「いけないひとで、ボク、パパのところへ一生帰りません。もし、パパが来たら……」
 ――どうしたの、そのあとは?
 ――「ボク、パパ嫌いだと大きな声で、……いって……いってやります」
 ――忘れないようになさい。パパが来たら、きっと、そういってやるのよ、いいわね。
 ――ええ、きっといいます。……ママ、ボク、捏粉菓子《ブリオーシュ》をひとついただいてもいいかしら?
 ――いけません。あなたには、ちゃんと黒パンが買ってあります。
 ――では、半分だけ……。
 ――うるさくいうと、いつかのように、口の中へお雑布を詰め込んであげてよ。いいから、もう、こっちへいらっしゃい。

 お兄さま。あなた、あたしをほめてくだすっていいはずよ。あたしは、我慢して、とうとう飛び出さなかったのですからね。そのかわり、夢中になって、じぶんの腕をつねっていたので、そこんところに大きな青痣《あおあざ》ができましたわ。
 二人が料理場を出て行きますと、あたしは、泥棒猫のように、地べたに腹を擦《す》りながら勝手口から逃げ出した。こんなやるせない思いをしたことがありませんわ。あたしは、半《はん》べそをかいていました。

     三
 お隣り寄りの、小瓦葺《こがわらぶき》の土塀の裾に、大きな壊《く》い穴があいているでしょう。下草《したくさ》が、まだ露でしっとりと濡れているころ、あたしは、毎朝、そこでボクさんを待っていますの。ほんの、三十分ほどお話をするために。
 ほの暗いうちに起きだして、そっとお台所へおりて行って、しきりにゴトゴトやります。ゆうべのうちに下拵《したごしら》えをして置いた茹卵《ゆでたまご》やハムでサンドイッチをこしらえたり、蜜柑水《みかんすい》をつくったりなかなかいそがしいのです。
 それができ上ると、ナプキンに包んで膝の上に置き、お台所の椅子に腰をかけて、時間になるのをじっと待っています。
 窓がほの白くなり、小鳥がチチと鳴きだす。やっと四時半。まだ、三十分もあります。この三十分が経つのを、あたしは、痩せるような思いで待っています。……

 お兄さま。これは、鎮子姉さまからうかがったのですけど、世間では、たしかに、利江子夫人のほうがすこしひどすぎるといっているそうです。
 ボクさんのお父さまは、学者肌の緻密な頭を持ったひとで、光学の精密器械をつくる大きな製作所を持っていらっしゃるんですって。
 鎮子姉さまのいい方を借りますと、やはり、機縁とでもいうのでしょうか。音楽などで、じぶんの頭をうっとりさせる必要のない久世《くぜ》氏が、お友達に誘われて偶然利江子さんの独奏会《レシタル》へゆき、いっぺんで利江子さんを好きになってしまったのです。誘ったほうが、飽気《あっけ》にとられる始末だったんですって。
 ところが、もうそのころ、利江子さんの身辺によくない噂が霧のように立ち迷っていたので、そのお友達は責任を感じて、加勢を募《つの》ってできるだけ反対しましたが、久世氏はどうしてもききいれない。このひとがと思われるような熱狂のしかたで、花束を持って、毎日のように利江子さんを訪問して、二ヵ月足らずでとうとう攻め落としてしまったのです。
 波動力学の計算ならば、だれよりも正確にやってのけるという久世氏なんですが、家庭設計の基礎算出のほうはあまりお上手ではなかったと見えます。
 それこそ、ちょうど火と水ほども性格のちがうご夫婦だったのです。久世氏のほうは、すこし一徹なところのある、ちょっと例のないほど几帳面な、腹の底からの技術家《メカニシアン》で、朝の珈琲《コオフイ》から夜のパイプの時間まで、紙型にとったようにキチンと割り切ってあるというふうなのに、利江子夫人のほうは、時間観念欠乏症《インパンクチュアリスト》の代表のような方で、自分の下着の始末さえ満足にできないようなとりとめのない性質なのです。
 ひる近くまで、ぐったりと寝台の中に沈んでいて、夕方になると、急に生々《いきいき》して男のお友達を大勢誘って遊びに出かける。「毎晩、どこかで音楽会があって、むかしのつきあいで、どうにも断わり切れないのよ」というのですって。
 久世氏は事務所から帰ると、女中の給仕で、ひとりで味気のない食事をなさらなければなりません。でも、沈着なかたですし、その時、もうボクさんも生まれていたので、こんな忌々《いまいま
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