》しい生活を五年も辛抱していらしたのですが、そのころ、久世氏はひとりの女性に出逢いました。格別美しいというのでもなく、ただ善良というだけのひとだったそうですが、久世氏は家庭を出てそのひととよそで同棲してしまいました。
 利江子夫人は、侮辱を感じて離婚の訴訟を起こし、たいへんな金高《かねだか》の慰謝料を請求しましたが久世氏は、夫人のいままでの不始末を楯《たて》にとって、手ひどくそれをはねつけました。夫人の側には、久世氏の主張がとおるに足るほどの不利な材料があったので、和解不成立のまま、あとは、そちらで、と却下されてしまいました。
 利江子夫人は、かんしゃくを起こして、そのしかえしに人質《ひとじち》のようにボクさんを取りあげて田舎へ隠し、次々と居どころをかえて、久世氏が手も足も出ないようにしてしまったのです。……
 お兄さま。あなたはどうお考えになりますか。こういう醜い大人の争いのために、人なつこい、温順な魂がムザムザ犠牲にされていいものなのでしょうか。
 ボクさんは、じぶんが、どんなひどい事情の中に生きているのか、ちゃんと知っています。小さな心では、とても処理し切れないようないろいろな悲しさに、じっと耐えてゆこうとする健気《けなげ》なそぶりを見ると、あたしは、ボクさんがいじらしくて、かあいそうで、あの小さな友達のためなら、どんなことでも厭《いと》わないような気になりますの。じぶんでもおかしいほど夢中になって、まだいちども経験したことのないような、胸を締めつけられるような奇妙な感情の中へ溺れこんでしまうのです。

 ここまで書いたところで、槇子《まきこ》さんから電話がかかって来ましたの。別にたいしたことではありません。お夕食のお招《まね》きよ。でも、それは明日《あす》のことですから、休まずに続けますわ。
 ……そんなふうにして、ジリジリしながら待っているうちに、ようやく時計が半《はん》をうちます。あたしは、ナプキンの包みをさげて、お勝手を飛び出し、土塀のところまで走っていって壊《く》い穴のそばへ坐ります。
 間もなく、桃葉珊瑚《ておきば》の繁みの向うからピジャマを着たボクさんが鉄砲玉のように駆けて来ます。
 穴から這い込んでくると、あたしの胸に、山羊のように、むやみに頭をおっつけたり、草の上にあおのけに寝ころんで足をバタバタさせたり、さんざんにあばれるのです。あたしも負けず劣らずにその辺をころげ廻ります。言葉では、とても二人のよろこびを表現することできないようなんです。
 ぞんぶんに暴れると、ようやく落ち着いて、できるだけより添って坐ります。
「キャラコさん、ボク四時ごろから目を覚ましていましたの。いくども時計を見たか知れないの」
「ボクさん、そうなのよ、あたしもそうなの」
 そういいながら、手早く草の上にナプキンをひろげます。サンドイッチが、白と朱肉色の切り口を見せて坐っています。赤い林檎《りんご》と冷たい蜜柑水《みかんすい》!
 ボクさんは、あまりうれしくて、すぐ手をつけるわけにはゆかないのです。塀のずっと向うまで駆けて行って、また駆け戻って来ます。それから食べるんですが、あわてふためいて、何もかもいっぺんに嚥《の》み込もうとするもんだから、喉をつまらせて、眼にいっぱい涙をためます。あたしは、いそいで蜜柑水を一口飲ませてやります。見る間に、サンドイッチが消えて無くなる。こんどは林檎です。
 ボクさんは、可愛くってたまらないというふうに、それを胸に抱きしめて、
「林檎さん、林檎さん」
 と、いいながら、頬ずりをします。
 あたしが、さいそくします。
「はやくお喰《あが》んなさいね、早く、ね」
 困ったことには、利江子夫人は、毎朝、かならず六時ごろ一度眼をさましますが、この時、ボクさんの部屋からヴァイオリンの練習をする音がきこえていなくてはならないんです。
 五時半までには、あと四十分ぐらいしかないのですから、ゆっくり喰べさせて置くわけにはゆきません。しなければならないことが沢山あるんですもの。
 ようやく、林檎が無くなります。二人は兎小屋へ駆けて行って五分ほど兎と遊びます。シーソーを二三べん。厩《うまや》へちょっと寄って、馬さんに挨拶をして、またもとのところへ戻って来ます。
 あたしは、急いで絵本をひろげる。『ベカッスさんの宝島探険』というお噺《はなし》なんです。
 きのうは、ベカッスさんが帆前船《ほまえせん》に乗り込むところまで行きました。きょうは、いよいよ船出しなくてはなりません。さまざまな手真似をまぜながら、あたしが読みだす。波の音や風の音まではいるんです。
 ボクさんは、草の上に猫みたいに丸くなって、酔ったようになって聞いています。
 ……どうも、工合の悪いことには、ベカッスさんの船がだんだんゆれ出す。ひどい風だ。山のよ
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