んしましょう。おつぎは、卵です」
 どうしたのか、返事がありません。ふり向いて見ますと、少年は、向うむきになって、壁に額をおっつけて、じっと立っています。
「おやおや、どうしたんですの、コックさん」
 肩へ両手をかけて、こちらへ振り向けて見ますと、少年は、長い睫《まつげ》に涙をいっぱいため、唇を顫《ふる》わせて、泣くまいと、いっしんにこらえながら、
「……卵、ありませんの。……お菓子、できませんね。……ボク、もう、いいの、あきらめました」
 あたしは大きな声で笑い出しました。……おやおや! ところで、どうやらあたしも泣いているようなんです。
「お坊ちゃん、だいじょうぶよ。家《うち》へ行って取って来ますわ。なんでもないのよ、そんなこと。……さあ、笑って、ちょうだい」
 人差し指の先で、涙の玉をすくってやって、あたしが、そういいますと、少年は、急に元気になって、
「ああ、ボク、助かった。……じゃ、すぐ帰って来てね。どうぞ、一分で帰って来て、ちょうだい」
「すぐ帰ってきますわ。……きっちり、一分でね!」
 料理場を飛び出すと、まるで巫女《ウイッチ》のように宙を飛んで家へ駆けてゆき、お台所から鶏卵と水飴《みずあめ》と乾杏子《ほしあんず》をひっ攫《さら》って、えらい勢いで駆け戻って来ました。
 粉を捏《こ》ねて、その中へ乾杏子を押し込み、焼き皿に牛酪《バタ》を塗って、キチンとお菓子を並べ、それから、厳《おごそ》かな手つきでそれをテンピの中へいれました。
 テンピの扉《と》が閉《し》まろうとすると、少年は、感きわまって、
「捏粉菓子《ブリオーシュ》さん!」
 と、大きな声で、別れを告げるのでした。
 ジュウジュウと牛酪《バタ》の焦《こ》げる音がきこえ、ふんわりした甘い匂いが、部屋の中に漂いはじめますと、少年は、我慢しきれないように喉を鳴らしながら、いくども水を飲みにゆきました。
 ところで、もう、間もなくできあがるというころになって、とつぜん、門のところで自動車の停まるような音がしました。
 少年は、ビクッとして、きき耳を立てていましたが、転がるように窓のところへ行って戸外《そと》を眺めると、真っ青な顔をして戻って来て、息もたえだえに、喘《あえ》ぐのです。
「ママ、……ママが帰って来た!……早く、ここに隠れて、ください」
 お兄さまも、そうお考えになるでしょう? あたしには、べつに隠れなければならないようなわけはありません。あたしはきょう傍若夫人に逢いに来たのですから、帰ってきたというなら、ちょうど幸いです。ボクさんのことも孔雀《くじゃく》のことも、なにもかも、ひとまとめにして、思いっきりいってやらなければおさまらないような気持になってきました。あたしとしては、たいへんな激昂《げきこう》ぶりでしたの。
 それで、あたしは、そういいました。
「あたしたち、べつに悪いことをしていたわけではないでしょう。あたくしから、よくお話しますわ」
 少年は、泣き出しそうな顔になって、
「いいえ、いけないの。あなたは何もごぞんじないんです。そんなことをしたら、あとで、ボクほんとに困るんですから。……ほらほら、こっちへやってくる……」
 少年は、気がちがったようになって、すぐそばの小部屋《こべや》へあたしをむりやり押し込むようにしながら、
「どんなことがあっても、ボクを助けに来ないって、約束してちょうだい」
 腹が立ってたまらないけど、しょうことなしに、渋々、こたえました。
「ええ、お約束してよ。つらいけど、あなたのおっしゃるようにしますわ、お坊ちゃん」
「つらくとも、どうか、そうしてね。……ボク、うまくママを向うへ連れてゆきますから、そうしたら、あの勝手口から逃げていって、ちょうだい。ボク、あすの朝早く、そっと塀《へい》のところへゆきますから……」
 あたしがその小部屋の扉《と》をしめると、ほとんど同時に、料理場の扉《と》があきました。ほんとうに、危ないところだったのよ。
 息をつめながら、暗闇の中で耳をすましていますと、こんな会話がきこえます。

 ――ボクちゃん、ここで何してた?
 ――ボク、遊んでた。
 ――おや、たいへん、いい匂いがすること!
 ――ママ、ボクお菓子をつくってたの。ママをびっくりさせてあげようと思って。
 ――これは、捏粉菓子《ブリオーシュ》じゃありませんか。これ、あなたがこしらえたの?
 ――ええ、ママ。
 ――嘘おっしゃい。……誰れが来たの?……この家へ誰れもいれてはならないはずだったでしょう。もう、忘れたの?
 ――つねっちゃ、痛い!……ああ、そんなにひどくすると痛いから……。
 ――早くおっしゃいね。
 ――角《かど》のお菓子屋さんが来たの。もう店をやめますから、お別れにお菓子をつくってあげましょう、って。……嘘をいって、ご
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