より軽くなったんだとかんがえてください」
「かんがえました」
「ほら、ズンズンあがってゆくでしょう。……ズンズン、ね」
「ほんとね」
「……そろそろ、風が冷たくなりましたね」
「いい気持よ」
「ここは、大熊星《だいゆうせい》のそばです。……耳んところで、風がヒュウヒュウいうでしょう」
「ええ、……ヒュウヒュウいうわ」
「もっと上へゆきましょうね。……もっと高く……もっと高く……」
「……もっと高く、……もっと高く……」
 ボクさんの声が、だんだんおぼろ気《げ》になります、ほの暗い庭の隅で。
 間もなく、寝息がきこえてきました。ボクさんが星の世界から帰ってきたのは、それから一時間ほど経ったのちのことでした。

     五
 あたしは、次の日の午後、久世氏の事務所の応接間の、大きな皮張りの椅子にキチンと掛けていました。
 なんともいえぬ奇妙な感情が、昨夜《ゆうべ》からあたしを悩ましているのです。予覚といったようなごく漠然としたものなのですが、それを久世氏に聞いてもらいたいと思って、それでやって来たのです。
 ひと口にいいますと、ボクさんの星の世界への憧憬《あこがれ》は、かんたんに敏感のせいだと形付《かたちづ》けてしまえないようなところがあるように思われ出してきたのです。稚《おさな》い詩心《リリスム》のほかに、なにかもっと別な意味があるのではないだろうか、って……。
 ボクさんが、星の世界へゆくというのは、想像の中の遊戯でなしに、なにかの比喩なのではないのかしら。……ボクさんが憧憬《あこが》れているのは、実は、ほんとうの『星の世界』のことなのかも知れない。
 こんなふうにかんがえて来ますと、あたしは不安になって、その晩は、とうとうマンジリともしないで明かしてしまいました。
 あたしは、午前中、じぶんの部屋の椅子に坐って、どうしたらこの手に負えない奇妙な不安から逃れることができるかと、いろいろにかんがえていましたが、結局、あたしの力ではどうすることもできないことに気がつきました。最初は利江子夫人にこの不安を打ち明けようかと思いましたが、なにしろあんなヒステリックなかたですから、そのために、ボクさんに、どんなひどいことをするかわかったものではありません。そうすると、これをうちあけるひとは久世氏よりほかはないのです。
 一方からいうと、これはたしかに突飛《とっぴ》なはなしです
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