て、梯子《はしご》をかけて土塀の上にのぼって見ました。
真向いの張り出しになったサン・ルームの窓を二十分ほども瞶めていますと、そのうちに窓の中にチラと白い顔がのぞきました。
ボクさんでした。
あたしは、夢中になって、せい一杯に手をあげて、小さな声で叫びました。
「ボクさん!」
ボクさんは、窓に顔をあてて、じっとこちらを眺めながら、悲しそうに首をふりました。
(いったい、何が起こったというのかしら)
思いつくかぎりのことを、あれこれと忙《せわ》しく考えめぐらして見ましたが、しょせん、何の足しになるものでもありません。
ボクさんは、手真似で、しきりになにかやっていますが、あたしには、どうしてもその意味がわかりません。ボクさんは、困ったような顔をして、考え込んでいましたが、なにを思いついたのか、ツイと窓のそばを離れると、ヴァイオリンを持ち出してきて、ゆるい調子の曲を奏き出しました。
きいていると、それは、ベートーヴェンの『|月光の曲《ムウンライト・ソナタ》』の緩徐調《アダジオ》の旋律《メロディ》なんです。……ようやくわかりました。ボクさんは、こういっているのです。
「……今晩、月が出たら……」
その午後、あたしは煮《に》られるような思いで、日の暮れるのを待っていました。この五時間ほどの時間が、自分の半生よりも、もっともっと長いような気がしましたわ。
ようやく月が出かかったので、土塀のところへ出かけてゆきました。
月の光の中で、桔梗《ききょう》の花が星のようにゆれています。あたしは、その中に坐って、ボクさんがやって来るのを待っていました。
そのうちに向うの草の中で、小さな足音がきこえ出してきました。あたしは、息苦しくなって、両手でギュッと自分の胸をしめつけました。
寝間着《ピジャマ》を着たボクさんが、白兎《しろうさぎ》のように穴から飛び込んできました。あたしは、赤ん坊のように両手で受けとめると、しばらくは、気が遠くなるような思いでした。
「ボクさん、あたし、毎朝、ここで待っていたのよ」
ボクさんは、沈んだ眼つきで、じぶんの胸のへんを眺めながら、
「……でも、ボク、出られませんでしたの」
「まあ、どうして?」
「……パパの手下《てした》が来て、ボクを連れてゆこうとするからって、ママ、ボクの部屋へ鍵をかけてしまいました」
「そんなことでしたの? ちっ
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