》しい生活を五年も辛抱していらしたのですが、そのころ、久世氏はひとりの女性に出逢いました。格別美しいというのでもなく、ただ善良というだけのひとだったそうですが、久世氏は家庭を出てそのひととよそで同棲してしまいました。
利江子夫人は、侮辱を感じて離婚の訴訟を起こし、たいへんな金高《かねだか》の慰謝料を請求しましたが久世氏は、夫人のいままでの不始末を楯《たて》にとって、手ひどくそれをはねつけました。夫人の側には、久世氏の主張がとおるに足るほどの不利な材料があったので、和解不成立のまま、あとは、そちらで、と却下されてしまいました。
利江子夫人は、かんしゃくを起こして、そのしかえしに人質《ひとじち》のようにボクさんを取りあげて田舎へ隠し、次々と居どころをかえて、久世氏が手も足も出ないようにしてしまったのです。……
お兄さま。あなたはどうお考えになりますか。こういう醜い大人の争いのために、人なつこい、温順な魂がムザムザ犠牲にされていいものなのでしょうか。
ボクさんは、じぶんが、どんなひどい事情の中に生きているのか、ちゃんと知っています。小さな心では、とても処理し切れないようないろいろな悲しさに、じっと耐えてゆこうとする健気《けなげ》なそぶりを見ると、あたしは、ボクさんがいじらしくて、かあいそうで、あの小さな友達のためなら、どんなことでも厭《いと》わないような気になりますの。じぶんでもおかしいほど夢中になって、まだいちども経験したことのないような、胸を締めつけられるような奇妙な感情の中へ溺れこんでしまうのです。
ここまで書いたところで、槇子《まきこ》さんから電話がかかって来ましたの。別にたいしたことではありません。お夕食のお招《まね》きよ。でも、それは明日《あす》のことですから、休まずに続けますわ。
……そんなふうにして、ジリジリしながら待っているうちに、ようやく時計が半《はん》をうちます。あたしは、ナプキンの包みをさげて、お勝手を飛び出し、土塀のところまで走っていって壊《く》い穴のそばへ坐ります。
間もなく、桃葉珊瑚《ておきば》の繁みの向うからピジャマを着たボクさんが鉄砲玉のように駆けて来ます。
穴から這い込んでくると、あたしの胸に、山羊のように、むやみに頭をおっつけたり、草の上にあおのけに寝ころんで足をバタバタさせたり、さんざんにあばれるのです。あたしも負
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