めんなさい。……『誓約』をしますから、ゆるしてちょうだい。ああ、腕が、ちぎれる……。
 ――ほんとうですね。
 ――ええ、ほんとうです。
 ――そんなら、『誓約』をしたらゆるしてあげます。……やってごらんなさい。
 ――「ボク、ママ、だいすきです。パパはいけないひとで、ボクを……」
 ――立って『誓約』するひとがありますか、ちゃんと、床の上へ膝をおつきなさい。
 ――はい、ママ。……「いけないひとで、ボク、パパのところへ一生帰りません。もし、パパが来たら……」
 ――どうしたの、そのあとは?
 ――「ボク、パパ嫌いだと大きな声で、……いって……いってやります」
 ――忘れないようになさい。パパが来たら、きっと、そういってやるのよ、いいわね。
 ――ええ、きっといいます。……ママ、ボク、捏粉菓子《ブリオーシュ》をひとついただいてもいいかしら?
 ――いけません。あなたには、ちゃんと黒パンが買ってあります。
 ――では、半分だけ……。
 ――うるさくいうと、いつかのように、口の中へお雑布を詰め込んであげてよ。いいから、もう、こっちへいらっしゃい。

 お兄さま。あなた、あたしをほめてくだすっていいはずよ。あたしは、我慢して、とうとう飛び出さなかったのですからね。そのかわり、夢中になって、じぶんの腕をつねっていたので、そこんところに大きな青痣《あおあざ》ができましたわ。
 二人が料理場を出て行きますと、あたしは、泥棒猫のように、地べたに腹を擦《す》りながら勝手口から逃げ出した。こんなやるせない思いをしたことがありませんわ。あたしは、半《はん》べそをかいていました。

     三
 お隣り寄りの、小瓦葺《こがわらぶき》の土塀の裾に、大きな壊《く》い穴があいているでしょう。下草《したくさ》が、まだ露でしっとりと濡れているころ、あたしは、毎朝、そこでボクさんを待っていますの。ほんの、三十分ほどお話をするために。
 ほの暗いうちに起きだして、そっとお台所へおりて行って、しきりにゴトゴトやります。ゆうべのうちに下拵《したごしら》えをして置いた茹卵《ゆでたまご》やハムでサンドイッチをこしらえたり、蜜柑水《みかんすい》をつくったりなかなかいそがしいのです。
 それができ上ると、ナプキンに包んで膝の上に置き、お台所の椅子に腰をかけて、時間になるのをじっと待っています。
 窓がほの白くな
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