つに隠れなければならないようなわけはありません。あたしはきょう傍若夫人に逢いに来たのですから、帰ってきたというなら、ちょうど幸いです。ボクさんのことも孔雀《くじゃく》のことも、なにもかも、ひとまとめにして、思いっきりいってやらなければおさまらないような気持になってきました。あたしとしては、たいへんな激昂《げきこう》ぶりでしたの。
それで、あたしは、そういいました。
「あたしたち、べつに悪いことをしていたわけではないでしょう。あたくしから、よくお話しますわ」
少年は、泣き出しそうな顔になって、
「いいえ、いけないの。あなたは何もごぞんじないんです。そんなことをしたら、あとで、ボクほんとに困るんですから。……ほらほら、こっちへやってくる……」
少年は、気がちがったようになって、すぐそばの小部屋《こべや》へあたしをむりやり押し込むようにしながら、
「どんなことがあっても、ボクを助けに来ないって、約束してちょうだい」
腹が立ってたまらないけど、しょうことなしに、渋々、こたえました。
「ええ、お約束してよ。つらいけど、あなたのおっしゃるようにしますわ、お坊ちゃん」
「つらくとも、どうか、そうしてね。……ボク、うまくママを向うへ連れてゆきますから、そうしたら、あの勝手口から逃げていって、ちょうだい。ボク、あすの朝早く、そっと塀《へい》のところへゆきますから……」
あたしがその小部屋の扉《と》をしめると、ほとんど同時に、料理場の扉《と》があきました。ほんとうに、危ないところだったのよ。
息をつめながら、暗闇の中で耳をすましていますと、こんな会話がきこえます。
――ボクちゃん、ここで何してた?
――ボク、遊んでた。
――おや、たいへん、いい匂いがすること!
――ママ、ボクお菓子をつくってたの。ママをびっくりさせてあげようと思って。
――これは、捏粉菓子《ブリオーシュ》じゃありませんか。これ、あなたがこしらえたの?
――ええ、ママ。
――嘘おっしゃい。……誰れが来たの?……この家へ誰れもいれてはならないはずだったでしょう。もう、忘れたの?
――つねっちゃ、痛い!……ああ、そんなにひどくすると痛いから……。
――早くおっしゃいね。
――角《かど》のお菓子屋さんが来たの。もう店をやめますから、お別れにお菓子をつくってあげましょう、って。……嘘をいって、ご
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