キャラコさん
海の刷画
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)海底《うみぞこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十|間《けん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き片仮名ン、252−上−15]
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     一
 まだ十時ごろなので、水がきれいで、明るい海底《うみぞこ》の白い砂に波の動きがはっきり映る。その白い幻灯のなかで、小指の先ぐらいの小さな魚がピッピッとすばやく泳ぎ廻っている。
 硝子《ガラス》細工のような透明な芝蝦《しばえび》の子。気取り屋の巻貝《まきがい》。ゼンマイ仕掛けのやどかり。……波のうねりが来るたびに、みんないっしょくたになって、ゆらゆらと伸びたり縮んだりする。
「わァい、やって来たぞォ」
「やっつけろィ、沈めてしまえ」
「助けてえ、落ちる、落ちる」
 渚から二十|間《けん》ばかり沖へ、白ペンキ塗りの一|間《けん》四方ぐらいの真《ま》四角な浮筏《ラドオ》を押し出して、八人ばかりのお嬢さんたちが、二組に分れて、夢中になってあがりっこをしている。
 手懸りはないし、ちょっと力を入れるとすぐ傾《かし》いでしまうので、なかなかうまく這いあがれない。
 骨を折って、ようやくの思いで攀《よ》じのぼると、筏《いかだ》の上は水に濡れてつるつるしているし、敵方がすぐ脚《あし》を引っぱりにくるので、わけもなく、またボチャンと水の中へ落ちてしまう。
 敵方は、海岸から馳《は》せ集まった混成軍。味方は、詩人の芳衛さん、絵の上手なトクべえさん、陽気なピロちゃん、男の子の鮎子さんの四人。日本女学園のやんちゃな連中で、片瀬《かたせ》の西方《にしかた》にある鮎子さんの別荘を根城《ねじろ》にして、朝から夕方まで、海豚《いるか》の子のように元気いっぱいに暴れまくる。
「わァい、万歳、万歳」
「眼玉やーい、河童の子。口惜《くや》しきゃ、ここまであがって来い」
 浮筏《ラドオ》の上から渚のほうを見ると、広い浜辺は、まるでアルプスのお花畑のようだ。
 赤と白の渦巻や、シトロン色や、臙脂《えんじ》の水玉や、緑と空色の張り交ぜや、さまざまな海岸日傘《ビーチ・パラソル》が、蕈《きのこ》のようにニョキニョキと頭をそろえている。
 理髪店《とこや》の出店のような小綺麗な天幕《テント》の中で取り澄ましている海岸椅子《ビーチ・チェヤ》。
 濃緑色の浜大蒜《はまにんにく》と白い砂。
 白金色の反射光のなかで、さまざまな色と容積が、万花鏡《カレエドスコープ》のように眼もあやに寝そべったり動き廻ったりしている。
 思い切った背抜《バックレス》や、大胆な純白の水浴着《マイヨオ》。お洒落な寛長衣《ベエニヨアール》、小粋《こいき》な胸当《ブラストロン》。
 コテイの|袖無し《サン・マンシュ》に、ピゲェのだぶだぶズボン。金属のクリップをつけた真っ赤な寝巻式散歩服《ジュップ・ピジャマ》。石竹《せきちく》色のカチーフ。
 大きな墨西哥帽《ソンブレロ》。そろそろとお歩《ひろ》いになる桑の実|色《いろ》のケープ。
 それから、砂遊びをしている子供たち。走り廻る小犬。
 ドーナツのような朱《あか》や緑の浮輪《うきわ》。黄と紺を張り交ぜにした大きな鞠《まり》で鞠送りをしている青年と淑女。歌をうたっているパンツの赤銅《しゃくどう》色。ライフ・ガードの大きなメガフォン。きりっとした煙草売り娘。アイス・クリーム。
 波打ち際では、三|艘《そう》のカノオが、ゆっくりゆっくり漕ぎ廻っている。
 腹いっぱいに空気を詰め込んだゴムの象や麒麟《きりん》や虎。そのひとつずつに五六人のお嬢さんが取っついて、ここでも沈めっこをしている。
 沖のほうでは、クロールが白い飛沫《ひまつ》をあげる。濡れた肘《ひじ》に陽の光りが反射してキラキラ光る。
 波の上に、のんきに浮いている泳ぎ自慢のお嬢さんたち。薄桃色やグウズべリー色の海水着が水蓮の花のように押しあげられたり見えなくなったりする。
 ゆるいうねりが来て、浮筏《ラドオ》がガクンと大きく首をふる。
 筏の上では、男の子の鮎子さんが、蟇《ひきがえる》のように筏にしがみついて頑張りつづけている。
 敵のほうは鮎子さんを引きずり降ろそうというので、水の底を潜《もぐ》ったり、バシャバシャ波を立てたりしながら、えらい勢いで攻め寄せてくる。
 味方の軍勢は、それを押しのけたり、沈めたり、蹴っ飛ばしたり、たいへんな奮戦ぶりだ。
 鮎子さんが、金切り声をあげて、筏の上から指揮をする。
「トクべえさん、あんたの足ンとこへ、真っ黒いのが潜《くぐ》って来たぞォ。蹴っ飛ばせえ、やッつけっちまえ」
 もう敵も味方もない。すっかりこんがらかってしまって、そばへ来たやつを、誰かれかまわずとっ捕《つか》まえては沈めにかける。
 誰も彼もみな、眼が塩ッ辛くなって、シバシバして開けていられない。咽喉《のど》の奥がからからになって、鼻の中がツンツンする。
 そこで、休戦ということになる。筏につかまって、みなゲエゲエやる。いろんな苦情が起こる。
 男の子の鮎子さんが、黒いお嬢さんをつかまえて、
「あんた、さっき、あたしの背中を拳骨でゴツンとやった」
 と、抗議を申し込んでいる。
 お嬢さんのほうも負けていない。
「あんたは、あたしの顎をいやというほど蹴っ飛ばしたわ」
 と、やりかえす。
 こちらでは、陽気なピロちゃんが、筏につかまったまま、絵の上手なトクさんと足で蹴合《けあ》いをしている。詩人の芳衛さんが、ニコニコ笑いながら、上品な傍観者の態度をとる。鮎子さんの背中をゴツンとやったのは、じつは芳衛さんなんだ。
 遠い沖のほうから、ピカピカ光る金髪が、平泳《ブレスト》でゆっくりこちらへ泳いで来る。
 毎朝、時間をきめて泳いでいるのだとみえて、たいてい昼すこし前に、沖から戻って来て、
「|お早よう《グッド・モオニング》、|お嬢っちゃん《リットル・ウィメン》」
 と、挨拶しながら、浮筏《ラドオ》のそばを泳ぎ抜けてゆく。
 皆の意見は、英国人だということに一致している。かくべつ根拠のあることではない。言葉使いが丁寧で、アクセントが綺麗だからという理由によるのである。年齢については、陽気なピロちゃんが、こんなふうに断定をくだした。
「あの英吉利《イギリス》人は、今年、二十七なのよ」
 詩人の芳衛さんが、訊《き》きかえした。
「ふうん、どうして、二十七なの」
 ピロちゃんで威厳をもってこたえる。
「どうしてってことはないさ。ワイズミュラーは今年二十七でしょう。だから、あの英吉利《イギリス》人も二十七でなくちゃならないんだ」
 なるほど、ワイズミュラーによく似ている。映画に出てくるワイズミュラーのようにふやけた顔はしていないが、身体の釣り合いや、腕の長すぎるところなんか、たいへんよく似ている。いかにも若々《わかわか》しく、元気で、そのくせ、考え深そうな眼付きをしている。
 それにしても、ずいぶん遠くから泳いで来るのだとみえて、浮筏《ラドオ》のそばを通り過ぎるころは、いつでもすこし疲れたようなようすをしている。元気な時は、挨拶をして、そのまま泳ぎ抜けて行くが、時には、十分ほど筏に片手をかけて息を入れて、それからまた岸へ向って泳いでゆくこともある。
「|有難う、お嬢さん《サンキュー・リットル・ウィメン》」
 普通の挨拶のほかに、ヘップバーンが出てくる映画の『若草物語』の原作、オルコット夫人の有名な小説『四人姉妹《リットル・ウィメン》』にかけているのらしい。
 なるほど、うまくいったもんだ。そういえば、もの静かな、すんなりした白い手がご自慢の長女のメグは詩人の芳衛さんに当るし、色が浅黒くて、きりっと身体のしまった男の子のようなジョーはいうまでもなく鮎子さん。内気《うちき》で音楽好きのベスは、陽気なピロちゃん。お姫様のように上品で、絵の好きな末娘のエーミーはトクべえさん。……まるで、ご註文のように、キチンとあてはまる
 ところで、ピロちゃんも、鮎子さんも、トクさんも、(リットル)といわれることをあまり感じよく思っていない。
「あたしたちは、もうウィメンなんだぞ。ちゃんと一人前に扱ってくれえ」
 絵の上手なトクさんが、ふんがいして、いった。
「あたしたちは、すくなくとも(リットル)なんかじゃないぞ。リットルなんていわれて、黙っているわけにはゆかないわ。……英語の『リットル』という言葉のなかには、たしかに、軽蔑する意味もあると思うんだ」
 ピロちゃんが、大真面目《おおまじめ》に、うなずく。
「あたしも、そう思う。……あの英吉利《イギリス》人のやつ、たしかに、あたしたちを馬鹿にしているんだ」
 黙って水浴着《マイヨオ》の裾を引っぱっていた芳衛さんが、すこし皮肉な調子でいった。
「ほんとうに、(リットル)ではいけないわねえ。……でも、お見受けするところ、どなたも、(グレート)とはいえないようだわ」
 このひと言のために、筏の上は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「芳べえのばかやろ。国民精神が稀薄だぞ!」
「ひとの真面目な議論をまぜ返すのはよくないです」
 芳衛さんは、みなにやり込められて黙ってしまった。
 一人前の淑女たちを『リットル・ウィメン』などと呼んだ仕返しに、ワイズミュラー君のことを『ローリーさん』と呼ぶことにした。小説では、『四人姉妹』の隣りに住んでいる、ローレンス家のちっちゃな坊やの名前である。

     二
 いっぱいに開け放した硝子扉《ケースメント》から、薄荷《はっか》入りの、清《すが》すがしい朝の海風《うみかぜ》が吹き込んでくる。
 白い紗《しゃ》の窓掛けを蝶のようにひらひらさせ、花瓶のダリヤの花をひとゆすり、帆前船《ほまえせん》の油絵の額《がく》をちょっとガタつかせ、妖精が戯《たわむ》れてでもいるように大はしゃぎで部屋の中をひと廻りすると、反対の窓からスット抜けて行ってしまう。
 絵の上手なトクさんも、陽気なピロちゃんも、男の子の鮎子さんも、誰も彼も、あわてふためいて、御飯をかっこんでいる。
 お味噌汁《みおつけ》は熱くてすぐ飲めないから、早く冷《さ》めるようにお椀《わん》に盛ったまま、ずらりと窓際に並べておく。御飯をかっこんだら、出がけに、立ったままで、ぐいと一息にやるつもりなのである。
 誰もものをいわない。鮎子さんだけは、みんなのように早くかっ込めないので、肚《はら》を立てて何かひとりでぶつぶついっていたが、いよいよ置いてゆかれそうになったので、御飯に水をかけてひっかき廻す。ピロちゃんもまねしてやり出す。誰も彼も大あわてだ。
 いったい、何を泡喰《あわく》っているというんです? あわてずにはいられない。海が逃げてゆく。
 絵の上手なトクさんが、
「一《いち》ィ」
 と、いって、立ちあがる。窓際へ駆けて行って、味噌汁をひと息に飲みほす。
「はい、すみました。……鮎子さんも、ピロちゃんも、芳衛さんも、いつまで食べてるの? いやァね」
 男の子の鮎子さんが、口惜《くや》しがって、茶碗の底に御飯をのこしたまま、
「二《に》ィ」
 と、立ちあがる。
 芳衛さんが、すぐ、それを見つける。
「ずるいぞ。……卑劣ですよ、あなた」
 鮎子さんは、半《はん》べそをかいて、また食卓へ坐る。その間《ま》に陽気なピロちゃんが、
「二《に》ィ」
 と、立ちあがる。
 めいめい茶碗と箸を持ってお勝手へ馳け込む。
 手早く茶碗を洗ってキチンと食器棚の中へ並べる。食卓の上を大きな羽箒《はぼうき》でサッとひと撫《な》で。どこにもご飯つぶなんかこぼれていない。それがすむと、キチンと窓際に整列する。
 右へならえ! 番号!……一、二、三、四。
 東京駅でヒットラー・ユーゲントの一行を見てから、鮎子さんたちの組に、いつの間にかそんな気風が乗り移ってしまった。
 規律。質素。服従。団体精神。――こういう新しい感覚が、きゅっと皆の心をつかんで、にっちもさっ
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