ちもゆかないようにしてしまった。この休暇ちゅう、規律正しい生活をしようと申し合わせたのである。

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規律。――六時起床、九時就寝。御飯は必ず三杯食べること。四杯食べたい時は、唾《つば》を呑み込んでおく。
服従。――これは、キャラコさんが来てから。
質素。――観念上の問題。形《かたち》より心のほうを重く見ること。(例。――上等のお菓子でも不味《まず》そうに食べること)
団体精神。――一致協力して敵に当ること。
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 朝御飯を無理やり三杯おし込むのも、窓際に整列するのも、みな青年隊《ユーゲント》の精神に即したことで、なかんずく、浮筏《ラドオ》でほかの組の女の子を沈めにかけるのは、その最も偉大な発露《はつろ》なのである。
 規律・規律・規律!
 どっちみち悪い気風ではない。それこそ、薄荷《はっか》入りの海風《うみかぜ》のようなすがすがしいものが、皆の心に吹き込んで、胸をいっぱいに膨《ふく》らせる。四人ながら、みな、この新しい生活形態に満足して、時には感激のあまり涙をこぼしそうになる。
 服装の点検が終ると、一列縦隊に隊伍《たいご》を組み、足並みそろえ、れいの行礼歩調というやつで、岡から浜のほうへ降りて行く。ヒットラーの観兵式をニュース映画でごらんになったことがおありでしょう。……長靴をはいた兵隊さんが、膝の関節をまげずに、爪先でじぶんの額を蹴《け》あげるようにしながら行進する、あの奇抜な歩調で。
 ところで、この示威運動《デモンストレーション》はあまり民衆の支持を得ない。四人の質実な精神は理解されないのである。低俗な民衆の眼には、どうも、すこし素頓狂《すっとんきょう》に見えるらしい。
 砂浜で寝転んでいる赤銅《しゃくどう》色の青年たちが、気色を悪くして聞えよがしに叫ぶ。
「おうい、見ろみろ、また気狂いどもがやって来やがった。なんでェ、あの脚《あし》つきは。あいつら、頭の加減でも悪いんじゃないのか」
 俗説に耳を藉《か》すな。そんなことでへこたれるには及ばない。新しい行動にはいつも迫害を伴うにきまっている。
 キッと口を結んで、穴のあかんばかり、まっすぐに海を瞶めたまま、えらい混雑の中を神憑《かみがか》りのような足どりで波打ち際まで行進する。
 そこで、お次ぎは団体精神の発動にうつる。
 敵軍はいないか。向ってくるやつはいないか。広い渚をゆっくりと眺めわたす。あまり、平和な眼付きではない。
 陽気なピロちゃんは、すこし注意散漫の傾向がある。ほかの三人が熱心に団体精神の予備行動を始めているのに、ピロちゃんだけは、ぼんやり沖のほうを眺めながら、こんなふうにつぶやく。
「あら、また、あのヨットがいるわ」
 鮎子さんが、釣り込まれる。
「ほんとだ。どうして、毎朝おなじところにじっとしているんだろう、妙だな」
 トクさんが、かんたんに片付ける。
「釣りでもしてるのさ」
 鮎子さんが、ふうん、と鼻を鳴らす。
「へえ、あんな沖で釣りをするのかい? あそこは海流からはずれているから、魚なんかいるはずはないんだ」
 ピロちゃんが、同意した。
「あたしもそう思う。魚なんか釣ってるんじゃないわ」
 トクさんが、ききかえす。
「じゃ、何してるの?」
 鮎子さんが、口を尖《とが》らす。
「何をしてるかわからないから、それで妙だというんじゃないか」
 右手に、三浦半島のゆるい丘陵がつづいている。その遠い遠い沖合いに、一風変わった赤い帆のヨットが浮んでいる。原色版のナポリの風景などでよく見る『ファルファラ』という、蝶々のような恰好の帆をもった、この辺ではあまり見かけないヨットである。
 この風変りなヨットは、きまった時間にどこからかやって来て、江の島の聖天島《しょうてんじま》と稲村《いなむら》ヶ崎を底辺にする、正三角形の頂点で錨《いかり》をおろし、二時間ほどそこに停っていて、それからまたどこかへ行ってしまう。
 毎朝、十時から十一時半ぐらいまでの間、きまってこれが繰り返される。ひめじ釣りにしては時間がおそすぎるし、鮎子さんのいう通り水脈筋《みおすじ》からもはずれている。いったいどんな目的で毎朝きまった時間に、きまったところに停まっているのか、それがわからない。このヨットを見かけるようになってから、これで五日になる。
 芳衛さんが、結論をつける。これを倫理の先生の口まねでやってのける。
「……たぶん、海岸のザワザワした雰囲気が、諸君を刺激して、いささか神経質にしているんだと思います。……とにかく、諸君はあまり懐疑的です。……ことに、鮎子さんのごときは、何を見ても、怪しいとか、奇妙だとかいわれるが、鮎子さんが懐疑を持ったものをよく調べて見ると、怪《あや》しかったり奇妙だったりしたことはただの一度もないのです。……よろしいか。要するに、あれは一|艘《そう》のヨットでしかない。毎朝、きまった時間にやって来て、きまったところに停まっているヨットに過ぎない。……それが、どうしたというんです? 放ってお置きなさい。やりたいようにやらせようじゃないか。どっちみち、われわれには関係のないことです、エヘン」
 これには、みな、噴《ふ》きだしてしまう。
 あまり腹の皮を捩《よじ》ったので、ヨットのことなど忘れてしまう。
 三人のうちで、いちばんこだわっていた鮎子さんが、まっ先にザブンと水の中に飛び込んで、クロールで浮筏《ラドオ》のほうへ泳いで行く。
「やったな!」
 一斉に水の中に飛び込む。すさまじい競泳になる。
 陽気なピロちゃんが、鮎子さんの腹の下を潜《くぐ》り抜けて、筏のすぐそばで海豹《あざらし》のようにひょっくりと顔を出す。間髪をいれずにえらい水飛沫《みずしぶき》をあげながら、鮎子さんとトクさんが到着する。芳衛さんだけは途中で棄権して、ゆっくりと平泳《ブレスト》で泳いで来る。
 筏のまわりに、今日は一人も女の子がいない。浜じゅうのお嬢さんたちは、四人の青年隊《ユーゲント》に手ひどく沈めにかけられ、すっかり懲《こ》りて誰も寄りつかなくなってしまった。
 そこで、止むを得ず、四人だけで仲良く筏のうえに攀《よ》じ登る。
 空には、ひとひらの雲もない。海は紺碧の色をして、とろりと微睡《まどろ》んでいる。濡れた肌にほどよく海風《うみかぜ》が吹きつけ、思わずうっとりとなる。どうも、これは退屈だ。
 鮎子さんが、脾肉《ひにく》の歎《たん》をもらす。
「つまらない、誰かやって来ないかな」
 すこし離れたところで、麒麟《きりん》の浮嚢《うきぶくろ》で遊んでいる五六人のお嬢さんの組へ叫びかけて見る。
「おゥい、やって来いよゥ」
 お嬢さんたちは、聞えないふりをして、自分らだけできゃッきゃと騒いでいる。昨日《きのう》、四銃士にさんざ水を飲まされた連中だ。
 鮎子さんが、口惜《くや》しがって、ぶつぶついう。
「よゥし、あとでひどい眼にあわしてやる」
 この時である。注意散漫のピロちゃんが、また妙なものを見つけた。
「おや、ローリーさんが、あそこで妙なことをしている」
 なるほど、すこし妙だ。
 いつもは、ゆっくり過ぎるくらいゆっくり平泳《ブレスト》で泳いで来るのに、今日はどうしたというのか、まるで癇癪でも起こしたように、ひどい飛沫《しぶき》をあげて泳いでいる。
 クロールともつかず、横泳ぎともつかず、ひどく出鱈目に手足を動かし、それも、急《せ》っ込んだり、のろくなったり、たいへんに不規則で、見ようによれば、ふざけているともとれるのである。
 そんなふうにして、浮筏《ラドオ》から三十|間《けん》ばかりのところまで近づいて来た。
 ところで、そこまで来ると、またすこしようすが変わって来た。眠りかけているひとのような、ぼんやりとした表情で、ものぐさくのろのろと水をかいている。時々、まったく腕の運動が休止して、ガブリと水の中へ沈み込むと、またあわてたように忙がしく手足を動かす。が、それも瞬時のことで、すぐ運動が緩慢《かんまん》になり、がぶッと水の中に潜《もぐ》ってしまう。そして、この、がぶッがだんだん頻繁になる。
 芳衛さんが、顫《ふる》えを帯びた低い声で、いった。
「ふざけてるのかしら」
 誰も、返事をしない。
 みな、吸い取るような眼付きで、ローリーさんの不思議な運動を眺めている。
 鮎子さんが、しっかりした声を、だす。
「ローリーさん、溺《おぼ》れかけているんだ」
 三人の背筋を、何か冷たいものが、すッと走る。チラチラと互いの顔を見かわす。みんな蒼い顔をしている。三人の眸《ひとみ》が、たがいに、どうしよう、どうしよう、といっている。
 鮎子さんは、両手で膝をかかえながら、
「……どうしたんだろうな、腓返《こむらがえ》しでもしたのかなァ」
 と、ひとりごとみたいにつぶやいていたが、だしぬけに、ザブンと水の中へ飛び込むと、鮮やかなクロールでローリーさんのほうへ泳いで行く。
 これで、三人も決心がつく。間《ま》をおかずに、すぐボチャン、ボチャンと飛び込む。
 三人が行きついた時には、ローリーさんは、もう浮きあがる力がなくなって、水の表面から三尺ほど下のところで、俯伏《うつぶ》せになったままゆらゆらと不気味にゆれていた。
 鮎子さんが、三人のほうへふりかえる。
「あたし、いま、引っぱりあげてくるからね、手足をつかまえて、みんなで筏《いかだ》ンとこまで持って行こうよ」
 白い蹠《あしうら》をヒラヒラさせながら、いったん、ずっと深くもぐって、両手で下からローリーさんの腹を押しあげるようにして浮いてきた。顔じゅう、水だらけにしながら、
「大丈夫だよ。まだ、死んでやしない。……狼狽《あわて》ちゃいけないんだ。ゆっくり持ってこう、ゆっくりね。……筏にのっけたら、あとは、岸まで筏を押していけばいいんだから、わけはないや」
 手足を持って四人で泳ぎだす。みな元気になる。陽気なピロちゃんが、頓狂な声をだす。
「でも、ずいぶん、でっかいなァ。……大《だい》人命救助だぜ、これァ」
 みな、ぷッとふき出す。
 ローリーさんを筏に押しあげるのがひと苦労。筏の鎖をはずすのでまたひと騒動。しかし、どうにか、それもうまくゆく。ローリーさんは、長い手足を筏からはみ出させ、筏の上に頬をつけて、ぐったりと眼をつむっている。
 四人の青年隊《ユーゲント》は、
「え※[#小書き片仮名ン、252−上−15]やサ、え※[#小書き片仮名ン、252−上−15]やサ」
 と、勇ましく掛け声かけながら、筏を押して岸のほうへ泳ぎ出した。

     三
 キャラコさんが、やって来た。
 ひとつずつ部屋をのぞく。
 女中もいれないで四人だけの『神聖の間《ま》』になっている海に向いたサンルームの扉をあけてみたが、ここにも誰もいない。
 ところで、思いがけなくどの部屋もキチンと片づいているので、これにはキャラコさんもびっくりしてしまう。
 毎年の例ならば、寝間着とラケットが同居したり、鞄《かばん》がひっくり返ったり、戦場のような騒ぎになってるのに、見ると、いろいろな遊戯《ゲーム》の道具は、みな、ちゃんと棚の上に片づけられ、ラケットは袋に納められて釘にかかり、靴やサンダルは爪先をそろえてズラリと窓際へ並べられてある。床はきれいに掃《は》かれているし、花瓶の水もまだ新しい。まるで、兵舎の舎室のような整然たるようすをしている。
 キャラコさんが、笑いだす。
「おやおや、たいへんだ。どうしたというのかしら……」
 ふと見ると、毎日の献立《こんだて》を予告する黒板に、大きな字で、こんなことが書きつけてある。

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メグ『虚栄の市《いち》』へ行く
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『メグ、虚栄の市へ行く』というのは『四人姉妹《リットル・ウィメン》』の第九章の小標題《こみだし》だが、しかし、これが何を意味するのか一向わからない。
「何のつもりで、こんなことを書きつけてあるのかしら。……きっと、また、何かあったのにちがいないわ。……ほんとに、手に負えないひとたちだこと」
 釘にかかっていた望遠鏡をはずすと、硝
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