子扉《ケースメント》のところへ行って海の上を眺める。が、浮筏《ラドオ》の上には誰もいない。白ペンキ塗りの筏が、酔っ払いのようにゆらゆらと体をゆすっているばかり。
 そこで、渚のほうに眼鏡を向けて見る。
 どぎつい色彩がいっぺんに眼に飛びついて来る。
 ようやく見つけた。……派手な海岸日傘《ビーチ・パラソル》の列からすこし離れた、浜大蒜《はまにんにく》の中で鮎子さんとトクさんと、ピロちゃんが胡坐《あぐら》をかいて、むずかしい顔で何か話をしている。どうしたのか、芳衛さんの姿だけが見えない。
 鮎子さんが、口を尖《とが》らせて何かしゃべっている。ピロちゃんとトクさんが、ひどく仔細らしい顔つきで、いちいちそれにうなずいている。
 キャラコさんが、つぶやく。
「あたしの予想通りだった。やはり、何か変わったことがあったんだわ。……いったい、何があったのかしら」
 キャラコさんは、すこし不安になる。帰るまで待っていられないような気がして、女中の菊やに迎いに行ってもらった。
 三人は、すぐ、やって来た。
 やって来るにはやって来たが、ひどく元気のないようすをしている。ふだんなら、犬ころのように飛びついて来て、おおはしゃぎにはしゃぐところなのに、ひとりずつ窓際の椅子にかけて、うっそりとうつむいている。
「おやおや、どうしたんです。みな、ひどく元気がないわね」
 ピロちゃんが、ニヤリと愛想笑いをする。そして、すぐまた、むずかしい顔をつくる。
 キャラコさんが、ニコニコ笑いながら、一人ずつ顔を眺めわたす。
「また、何かあったのね? ……何があったの? ……『メグ虚栄の市へ行く』って、いったい、何のこと?」
 鮎子さんが、しぶしぶ、口を切る。
「メグ、ってのは、芳衛さんのことで、虚栄の市、ってのは、海浜《かいひん》ホテルのことなの」
「面白そうな話ね。……つまり、芳衛さんが海浜ホテルへ遊びに行ったということなのね」
 ピロちゃんが、うなずく。
「ええ、そう[#「ええ、そう」は底本では「ええ、、そう」]なの」
「でも、海浜ホテルが『虚栄の市』ってのは、なぜなのかしら」
 鮎子さんは、首をふって、
「海浜ホテルが『虚栄の市』だというんじゃないの。それには、もっと別なわけがあるんです」
 そういって、ピロちゃんとトクさんのほうへ気の弱い眼差しを向ける。
「話しても、いいかしら?」
 ピロちゃんが、怒ったような声を、だす。
「鮎子さん、あんた、今日、ハキハキしないわね。キャラコさんに隠して、あたしたちだけで、うまくやれると思っている?」
「そうは思わないよ。……ただね、キャラコさんがいないと、すぐ、妙ちきりんなことばかり始まるんで、うんざりしてしまうんだ。……少女期ってのは扱いにくいね。……とにかく、ひどくむずかしいや、ひとのことでも、自分のことでも……」
 トクべえさんが、上品な声で、口をはさむ。
「あたしだけの感情を述べさしてもらえるなら、いま、そんな呑気《のんき》なことをいってはいけないのだと思うわ。……あたしだけが、そんなふうに感じるのかも知れないけど、今度の事件は、あたしたちが気づかないところに、なにか重大なことがたぐまっているような気がしてしようがないの。あたしたちなんかには、手のつけられないようなものが、モヤモヤしているように思われるのよ。……うまくいえないけど」
 キャラコさんが、沈着な顔つきで、いう。
「とにかく、何があったのか話してみたらどうかしら。……できるだけ、くわしくいってみてくださいね。……感じたことではなく、なるたけなら、眼で見たり、耳できいたりした事実だけのほうがいいわ」
 鮎子さんが、口を切る。
 若い英吉利《イギリス》人が、毎朝、びっくりするような遠い沖から泳いで来ること。……われわれ四人を『リットル・ウィメン』と呼んだこと。だから、こっちで竹箆返《しっぺいがえ》しに『ローリー坊や』と名前をつけてやったこと。……そのローリーさんがあぶなく溺死しかけたので、四人で筏に乗せて岸まで持って行ったこと。
 ピロちゃんが、それにつづいた。
 ……すると、ローリーさんは、そのお礼だといって、海浜ホテルの晩餐に四人を招待したこと。鮎子さんがまっ先に、そんなもの食いたくねえや、といったこと。海岸で知り合っただけの、どこのどういうひとかわからない外国人の招待などに、軽々《かるがる》しく応じないほうがいいということにみなの意見がまとまったこと。
「ねえ、キャラコさん、もちろん、あなたもそう思うでしょう。……向うの気持はわかるけど、あたしたちが、そんなものにやすやす応じるような不見識な娘たちだと思っているのかしら? ……そういうものの考え方に、何か、いやなところがあるわね。鮎子さんが、だれがそんなものを食いに行くもんかって肚《はら》を立てたのは、たいへん、至当なことだったわ。……それから、あたしたち、……すくなくとも、ここにいる三人は、ローリーさんに、あまりいい感じを持たなくなったの」
 キャラコさんが、うなずく。
「よくわかったわ。……それで芳べえさんのほうはどうなの」
 キャラコさんには、どんなことが始まっているのか、だいたい察しがつく。なるほど、ちょっと軽々しくは裁量《さいりょう》できかねるようなむずかしさがあった。
 あまりこちらが敏感に察するのはよくないと思いつつ、すこし心配になってきて、
「……つまり、芳衛さんがローリーさんのところへ遊びに行くというのね」
 うっかり口走って、キャラコさんは、顔を赧《あか》らめた。
 女学生がホテルにいる西洋人のところへ遊びに行く……。自分より若いひとたちの前で口にのせるような言葉ではない。キャラコさんは、閉口して俯《うつ》向いてしまった。
 しかし、三人のほうは、そんな意味にはとらなかった。
 鮎子さんが、眼玉を大きくひ※[#小書き片仮名ン、255−上−11]|剥《む》きながら、勢い込んで、いった。
「そうなんだよ、キャラコさん。……芳衛さんは、ご自慢のオーガンジの服を着て、毎日、三時になると、女王様のようにそっくり返ってローリーさんたちの『お茶の会』へ出かけて行くんだ。……そのお茶の会っていうのは、SSヨット倶楽部《くらぶ》の連中の会で、気障《きざ》なシャナシャナした男や女が大勢いるんだって。……これが、『虚栄の市へ行く』ということなの」
 ピロちゃんが、頓狂な声をだす。
「……ヨットといえば、キャラコさんに、まだ『赤い帆のヨット』の話をしなかったね、トクべえさん」
「そう、まだしなかったわ」
 トクべえさんが、れいの感じ[#「感じ」に傍点]を混《ま》ぜながら、奇妙な赤い帆のヨットの話をした。
 みな、芳衛さんのほうを忘れてしまって、赤い帆のヨットについて、思い思いの意見を述べたてた。
 鮎子さんが、いった。
「キャラコさん、海流からはずれたところで、わざわざ魚を釣るなんて馬鹿なはずはないんだけどあなたどう思う?」
 キャラコさんの頭に、ちょっとした考えがひらめいた。
「……ローリーさんが、毎朝、ずっと沖から泳いで来るといったわね。……その時、沖に、赤い帆のヨットがいるの? いないの?」
 トクべえさんが、考えるような眼付きをしながら、こたえた。
「どうだったかしら。……よく、気をつけてなかったけど」
 鮎子さんが、突然、大きな声を出す。
「たしかに、いたような気がする!」
 ピロちゃんが、うなずく。
「そういえば、なるほど、そうだったかも知れないわ」
 キャラコさんが、いった。
「ローリーさんというひとは、毎朝、そのヨットから泳いで来るのじゃないかしら」
 なるほど! ピロちゃんも、鮎子さんも、トクべえさんもゾクッとしたような顔で互いに眼を見合わせた。
 キャラコさんが、つづけた。
「……赤い帆のヨットが、定《きま》った時間に、きまった場所へやって来るのだとすると、従って、ローリーさんも、毎日、きまった時間に、きまった場所から岸へ泳いでいることになるわけね」
 三人が一斉に叫ぶ。
「そうだわ!」
 ピロちゃんが、真剣の眼付きで、
「でも、なぜ、そんなことをするのかしら?」
「それは、あたしにもわからないけど、こんなことは考えられるわね。……もちろん、これは、あたしの想像よ。……ともかく、ことさら、赤い帆をつかったりするのは、どこからでもはっきり見えるようにするためで、蝶々のような風変りなかたちの帆をあげるのは、他のヨットと紛らわしくないようにして置くためだともとれるわ。……それから、もうひとつ。……この要塞地帯で、わざわざ目立つようなことをするのは、そのゆえに、逆にひとの注意をそらそうとする意図なのじゃないかしら」
 いつの間にか、三人は椅子から離れて、キャラコさんの足下《あしもと》の床へ坐り込んでしまった。
「そうだとすると、たいへんなことになって来たな。すると、つまり……」
 そこまでいって、急に口を噤《つぐ》んでみなの顔を眺めわたした。その心は、すぐ、みなに通じた。しかし、誰もそのあとを続ける気にはなれなかった。この思いつきは、馬鹿ばかしいようでもあり、恐ろしいようでもあった。
 みな、急に声が低くなって、額《ひたい》をあつめて、ごしゃごしゃと話し合っているところへ、芳衛さんが、細かい花模様のある、提灯《ちょうちん》のように裾のひらいたオーガンジの服を着て、気取ったようすで入って来た。
 馬鹿ねえ、といいながら、まっ直ぐに黒板のほうへ歩いて行って、その上の字を拭き消すと、いつもとちがった、ひどくつきつめたような顔で皆のほうへ戻って来て、床の上へ坐り込みながら、囁《ささや》くような声で、いった。
「諸君、たいへんよ。……じつはね、あたし、今日まで、やれるだけやってみたの」
 それから、もう一層声を低めて、
「ひょっとすると、ローリーさんは、たいへんなやつなのか知れないんだぞ!」

     四
 から騒ぎではなく、『赤い帆のヨット』とローリーさんの関係に見きわめをつけることが、五人の義務になってきた。
 いろいろな現象をとおして、できるだけ注意深く事実を観察すること。その結果を綜合し、これに結論を与えることは、こういうことに熟達した専門家に任せるほうがいいというキャラコさんの意見だった。
「芳衛さん、あなたが『お茶の会』へ出席して、ローリーさんを監視するようなことはよしたらどうかしら。そんな子供じみたことで、ローリーさんから何か探り出せるわけはないんだし、何より、傍観者の態度を捨てないことが、だいじだと思うんだけど……」
 芳衛さんは、もちろん、それに服従した。
 そのかわり、ツアイスの二百倍の望遠鏡でヨットとヨットの中の人間の動作を観察する役目が与えられた。
 それを記録する係りが、ピロちゃん。……トクべえさんは、ローリーさんがヨットから海へ飛び込む時間を正確に記録して、毎日の時刻の変化を図表《グラフ》で表わしておくこと。……鮎子さんは三人の助手。そのほかに『観察』が終ったら、それを持って、横須賀の造艦部に勤務しているお父さんのところへ行く役目が振り当てられた。
 所定の五日が終った。
 芳衛さんの報告書は、なかなか美文だった。

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一、ヨットを操縦しているのは、『SSヨット倶楽部』のミス・ダンドレーと称している婦人。ヨットの中の動作はきわめて単純なり。クッションにもたれて常に読書す。時には、ローリー氏が朗読し、ミス・ダンドレーがこれを傾聴することあり。ミス・ダンドレーは、ローリー氏に対して、きわめて冷淡なる態度を示す。これに対して、ローリー氏は、不満を訴えるがごとき動作をなすことあり。他《た》に著《いちじる》しき事実なし。ただ、ローリー氏がヨットを離れんとする際、きまって口論するがごとき身振りを相互に交換す。いかなる意味なるや、解し難し。
[#ここで字下げ終わり]

 トクべえさんが、『ローリーさんが海へ飛び込む毎日の正確な時間表』を呈出した。それは、次のようなものだった。

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八月十九日 午前九時十二分
同 廿 日 午前十
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